だん、だーだん、だらぁ

「君の魅力は何かな?」
「僕の魅力を説明することはできません。僕の魅力は色々な要素が絡まって、その結果として現れる幻のようなものだからです。しかし、そういった複雑なシステムを持つというのは、魅力的な人間であるための条件でしょうね」
「それは魅力がないということかな?」
「魅力というのは元より他者の意見ですから、僕の魅力の有無もやはり他者の自由です」
「ふーむ」
「ついでに言えば、僕の発言を理解していれば、魅力というものを語ることがナンセンスということになります。もし魅力というものを見出したいならば、僕の言動を見てもらうしかないでしょう」

脳はとても複雑だ。
脳には視覚、聴覚、痛覚、記憶などなど様々な分野があり、それらが相互作用してこの現実を得ることを可能にさせる。
視覚という分野だけを見ても、色、角度、縦、横、運動方向・・・詳しくは知らないがそういった分野にまた分けることができる。
どれか一つ判ったところで、この現実は判らない。
どれか一つ欠けるだけで、この現実は発生しない。
全て判らなければ、この現実は発生しない。
哲学の論文もこれと似ている。
哲学書なんてのはつまらなくて欠伸を何度も出しながら読むのだが、最後の数行を読むと、いきなり視界が開けて欠伸など出るはずがないと思えてしまう。
それは最後の、まとめ的な部分を読んだから、ということではない。
全部読んで、全部理解しなければ、その人の哲学は理解できない、ということだ。
一箇所だけ、一文だけ読んで理解できるようなレベルの話ではないのだ。
全て理解して初めて一つの理解が完成する。

サッカーには戦術的ピリオダイゼーション理論というものがある。
これは練習方法に関する思惟だ。
素晴らしい結果を残しているモウリーニョという監督が練習の軸に置いている考えとして有名だ。
かく言う僕も、モウリーニョで始めてこの理論を知った。
戦術的ピリオダイゼーション理論曰く、サッカーというものは流動的でカオスでフラクタルなんだから実践練習が一番なんだよ!ということだ。
まぁこの理論を一般化(実践化)すると、実践練習に重きを置く、ということになる。
その根底となる考え方は、サッカーを分野分野に分けて考えるのではなく一つの生き物のように見ることに始まる。
何箇所かの分野に分けて練習しても価値は小さい。サッカーは11対11という環境そのものであり、別個に練習することはサッカーの練習にはならない。
もし右MFの選手はサイドを縦に走るのではなく中央に切り込むことを好むならば、右サイドは手薄になるだろう。しかし中央に切り込むことによって中央は手厚くなるしボランチの選手が攻撃参加しやすくなるだろう。すると敵も中央に選手に固めるかもしれない。その時左サイドにスペースができる可能性がある。そこを使えば攻撃が成功するかもしれない。
これは一例だが、サッカーというのは全ての選手が相互作用して織り成すものだ。
ハーフラインあたりでごちゃごちゃとパスを回している場合キーパーは関係ないんじゃないだろうか?いいや関係している。キーパーがいなければゴール向かってシュートを撃つだけなのだから。
もちろんこうは言っても、個々の力というのは必ずサッカーには影響するし、DFの位置が~MFの連携が~など分野ごとに考えるほうが効率的な場合もある。
だが戦術的ピリオダイゼーション理論では、そういったケースは特殊なケースである。
サッカーは足し算ではない。
だからどこか一箇所を変えるだけで強くなることはないのだ。
全てを総括して考えることで始めてサッカーを理解できる、そんな考えが根底にある戦術的ピリオダイゼーション理論を知った僕は当時とても衝撃を受けた覚えがある。

不完全性定理というのは結果だ。
システムはどこもおかしくない。
システムは正常で正確で確実だ。
だから現れる、不完全、という正常で正確で確実な結果なのだ。
矛盾などしていない。

「しかしそこまで言うなら今の僕が過去の僕を省みて、魅力を探ってみようと思います」
「聞きたかったのはそこだよ」
「頭脳明晰、運動神経良好、ストイックですが同時に、思惟は不完全で、足は遅くて体は固く、飽き易い傾向も持っています」
「結局どういうこと?」
「特徴がありすぎて、説明することは不可能なほど、複雑で魅力的だと言うことです」
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# by xtu_ltu9981 | 2010-06-06 07:45 | 徒然なる希望と絶望

ちゃーらぁたったーらぁ

布団に包まり小説読み続けた。
カメラ持って散歩した。
目瞑って自分について考えた。
訴えるようにギター弾いた。
コーヒー片手に専門書読み耽った。
缶ビール片手に深夜の公園徘徊した。
酔いに揺られて歌歌った。
安いウィスキー自転車のカゴに、深夜の道路縦横無尽に走り回った。
たまには、と良い酒グラスに注いで音楽聴いた。
そしていつも、自由になったら、と考えて、自由なんてない、と思う。

僕には翼がないから、空を飛べない。
僕には脚力が少ないから、音速で走れない。
僕には腕力が少ないから、地球を割れない。
僕には・・・etc

時間がない、と誰かが言った。
忙しいから、と誰かは言った。
それにしては彼らは時間を使って、何かをしていた。
彼らは常に社会に指示され動いていて、それに少なからず喜びを感じている。
だから自分のために使う時間は少ない。
僕は指示されるのが嫌いで、時間の使い道は自分で決めようと思っている。
だから、時間がない、とか、忙しいから、などとは言わない。
時間を用意するかしないかは僕次第だ。

僕には翼がないから、飛行機を使う。
僕には脚力が少ないから、車を使う。
僕には腕力が少ないから、ドリルを使う。
僕には・・・etc

いつも僕は規則に縛られ生きている。
どう足掻いても、僕は物理法則から逃れられない。
どう足掻いても、僕は僕から逃れられない。
だから、現状をできるだけ活用しようと思った。
できないことはある。
だからといって、関係はない。
僕の意思がある限り、自由は切り開く。
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# by xtu_ltu9981 | 2010-05-29 04:10 | 徒然なる希望と絶望

だだらだだらだだらだだらだ

太陽は膨張すると温度が下がり、縮小する。
縮小すると温度が上がり、膨張する。
このアンバランスのようで確実な運動に支えられ、太陽は何十億年とこの宇宙に滞在している。
情報というものもこれと似ているかもしれない。
情報が増え続けると、人間はそれの単純化を試みる。
そしてその単純化された情報がまた新たな情報を作り、情報は増え続ける。
食事という言葉も元は、栄養分を口に運んで胃に落とす、という言葉の略語なのかもしれない。
まぁこんな馬鹿げた極端な話はないが、似たようなことを感じている同世代の人間はいると思う。
なぜなら僕の同年代というのはほとんどが大学生であり、彼らはそこで始めて一種専門的な知識に出会うからだ。
専門的な分野は専門用語が多い。
専門用語は略語や単純化の代表的存在と言えるだろう。
数学では定理というものがある。
定理とは公理と規則から導かれたものだ。
公理と規則を間違えずに使用して定理を求めると、一般的にはそれを、証明、と言う。
そして証明された定理は今後、何の疑いもなく使用が可能となるし、この定理を使用する証明が現れるかもしれない。
定理が新たな定理を生むのである。
しかし、やはり根本としてそこには疑問を抱かざる得ない。
証明に使用する過去に証明された定理は本当の正確なのだろうか、ましては使用しようとしている定理を導いた公理や規則に問題はないのだろうか。
数学者がこの問題に触れるのは必要なときだけであり、基本的にはこの問題は放置される。
数年前にフェルマーの最終定理(aのn乗+bのn乗=cのn乗となるa,b,cはn≧3に置いては存在しない)が証明された。
ほぉ、証明されたのか。というのが僕の印象だし、こういったa,b,cは確実に存在しないのだ、と僕は振舞うことになるだろう。
だが僕はフェルマーの最終定理の証明を理解していない。
僕だけではない。数学者ですら、多くがこの証明を理解せずに定理を認めている。
一部の人間が、私はこの証明が理解できるしこの証明は正しいのだからフェルマーの最終定理は正しい、と言い、それを聞いた僕はそのまま受け取ることになるのである。
フェルマーの最終定理は色々なものを生み出している。これが証明されたお陰で谷村・志村予想というものが証明された。
谷村・志村予想は数学界における2種類の分野に架け橋を作り、数学の新たな可能性を見出したし、現に今も見出されていることだろう。
その見出している数学者でさえ、多くはきっとフェルマーの最終定理の証明を理解していない。
何が言いたいのかは多少理解してもらえたことであろうが、もう少し極端な例を出そう。
神様の存在を信じている人がいるだろうか?
世の中には神様の声を聞いたり、姿を見たり、会話したりする方法を記した文献が数多くあるだろう。
本当に、そういった文献に書かれている通りのことを実行すると神様の存在を認識することができるのだろうか。
ほとんどの人間が、NO、と答える。
なぜか?
それは科学的でなかったり、合理的でなかったり、論理的でなかったり、と言う。
しかしそのどの意見にも、結局は根拠などない。
あるとすればそれは、科学に対する妄信的な信仰であったり、合理性に対する根も葉もない絶対的信頼である。
元より僕たち(神に出会えないと言う人間)は文献に書かれている方法を知らないし、まず何より彼ら(文献当時の人間)とは文化や言葉といった色々な面で違うのだ。
それなのにあの文献は間違っているだのと言うのは根本的におかしい。
私はアレを知らないからアレは間違っている、と言っているようなものである。馬鹿げた話だ。
科学に対する妄信的な信仰と書いたが、元より科学を正確に理解していれば神の存在を理由なしに否定することもなかっただろう。
科学とは判らないものに対する解釈の一つのアプローチだ。そこには決して神学や宗教における神秘を批判するものは存在しない。
それが曲がりに曲がって、今となっては科学は科学以外を批判する方法とされているのだ。
略語や単純化にはこういった歪曲と言うか、こういった錯覚の効果が現れることがある。
人間は情報の膨大化と共に、判りやすさを求めてしまう。
判りやすさは理解や新たな知識への活力ともなるだろう。
だが同時に、判りやすさには常に錯覚の可能性が付き纏う。
僕たちは抽象的な理解を恐れてはならない。
世の中は見ているだけだと抽象的なものなど存在しないし、いつも結果だけが存在する。
だが結果はいつも理由などの抽象的な背景を持っているのだ。
結果だけを見て、それで物事を理解したと考えてはならない。
結果が全て、というのは利益主義者の言葉であり、結果には常に錯覚を孕んでいる可能性を忘れてはならない。
僕は宗教や神学や占いを信じているわけではない。
しかし同時に科学や論理学、医学を信じているわけでもない。
ただ間違っていると思えるものは、唯一その、間違いだ、と考えていることだと思う。



もし僕の文章が理解できないのならば、それはそれで良い。
一番問題なのは僕の最後の方のまとめ的な部分だけで理解をしようとすることだ。
それだけはやめて欲しい。
僕が書いていることはそういうことだ。
判りやすいところだけで理解をしてはいけない。
単純な言葉には色々な解釈があるし、決してそれだけでは僕の理解に達することは出来ないのだ。
だからこの『あとがき』的な部分を読んでも、理解できない、と理解して欲しい。
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# by xtu_ltu9981 | 2010-05-28 06:58 | 徒然なる希望と絶望

いつでもだれかがー

カラオケに行ってジブリとディズニーの曲ばかり歌っていた。
最初はマンネリした曲からの解放だったのだが、その解放先にはとても大きな世界が広がっていることを知った。
歌い始めるとその作品を断片的に思い出して感動するんだ。
僕はジブリ作品に関して言えばとても高い評価を持っているし、ディズニーの一部の映画に関してもそうだ。
1年前ほどだったと思うが、Veohでジブリ映画を見直したことがある。
その時僕はとても感動して、当時書いてた詩や脚本と照らし合わせて、オレはなんてちっぽけなやつなんだ、と感じた。
それは本当に思ったことだし、今でもあんな素晴らしい作品を作れる人間になりたいと思っている。
カラオケで僅かに目頭が熱くなったのを感じながら、家に帰ったらジブリをまた見直そうと考えた。
1作目には平成狸合戦ぽんぽこを選んだ。
1年前に見直したときはこの作品を見ていなかったことを思い出したからだ。
その感想を書こうと思う。

山を削られ食料は減り、住処を追われた狸たちはあーだこーだと都市開発を阻止しようとするが結局は失敗し、人間社会に溶け込んで生きていく。
狸では人間に敵わない。描かれている狸のポテンシャルは人間を上回っているように見えた。しかし元より数が違う。だから阻止計画は失敗した。
社会的敗北を喫した狸の数は減ったが、それでも彼らは歌って踊り人生を謳歌する。
ラストシーンに、狸たちは変わりきった住処を昔の元の山へ変化(化学)させることにする。変化で現れた昔の山には狸たちが自由に駆け回り、親狸の周りをくるくる回る子狸たちが見える。それを見た今の狸たちは涙を流してその親子に駆け寄る。すると変化は解けて、そこにはこちらを見ている人間の親子が現れる。
住んでいる社会、環境が違えど、そこにある親子の関係に人間も狸もないのだ。
僕はこの映画を映画館で見たことがある。確かそれは15年ほど前の話だろう。
あの頃に比べれば僕は歳を取ったし、色んなシガラミが増えたから自由とはいえなくなったけど、それでも人生を謳歌しているつもりだ。
僕も変わったし、僕を取り囲む環境も変化した。
知り合いは増えたし、もう会わないだろうと思える知り合いもいる。数年前まで雑木林だった場所には家が建ち、そこに今は住んでいる。
別に僕は環境破壊云々を言いたいわけではない。
ただそういった社会レベルの変化と個人レベルの僕自身の変化はたまにそのレベル差に隠れて忘れてしまうことがあるけど、いつもお互いが干渉しあっている。
だから狸たちは環境がどれだけ変わろうと、どれだけ自分たちの生活方法が変わろうと、楽しく人生を謳歌して、謳歌するために生きているに違いない。
そう思わせてくれる作品だった。



『狐や狸が姿を消したって。アレやめてもらえません?そりゃ狐や狸には化けて姿を消せるのもいるけど、でもウサギやイタチはどうなんですか?自分で姿を消せます?』
最後に狸はこう言う。
姿を消した、のではない。死んでいってるのだ。
これは社会というものの強さを物語っている。
自意識を持っていない人間が多いのは社会の強さに屈服した人間が多いからだ。
決して、持っていないフリをしているわけではない。
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# by xtu_ltu9981 | 2010-05-19 01:04

たららたたららた

1.スペイン
2.ブラジル
3.イタリア
今年の力関係はこれだ・・・!!!

自由の中を自在に活動する、なんて言葉を僕は最近よく使う。
Amazonでいつも通り、本を物色していると懐かしい著者が出てきた。
森博嗣は僕が中学生時代の2ヶ月間で30冊も消費した本の著者である。
読むのが遅い僕としては驚異的な消費スピードだ。それはどれだけ森博嗣の本に興味を惹かれたのかを表している。
最近では押井守監督の『スカイ・クロラ』の原作者としても少し名前が出たかもしれない。
その名前がポツンと出てきたのだ。
本の題名は『自由をつくる自在に生きる』。
僕が最近よく言う言葉にかなり似ていた。
言っておくが、僕はマネをしていないし、この本は09/11出版らしいから森博嗣側もマネしていない(僕が言い出したのは3ヶ月前くらいからである)。
最初はちょっと気色悪かった。僕は森博嗣から影響を確実に受けている。
彼の小説はとても魅力的だったと覚えているし、具体例を挙げなくてもその魅力は幼い僕の体に何かを刷り込んだだろう、と推測できる。
だから直接的なマネではないが、僕が彼の思考パターンを少しパクった、から同じ言葉をチョイスしたのかもしれない。
あまり信じたくない話ではあるが、その可能性は少し考慮されるべき対象だ。不毛な話なのは間違いないが。
しかし、自由について考えればこの言葉をチョイスすることは何も不思議ではないからどこもおかしくない、とも思った。
ついでに買って読んでみた。
少し反論はあるものの、これは言葉の捉え方次第という枠組みに余裕で収まる範囲だから差を一々書くまでもない。
要するに同じだった。
もし僕が言う「自由の中を自在に活動する」という言葉があたかも、当たり前、のように見えるならきっとそれは自由をバカにしている。
自由という規制や限界の中をどれだけ自分の意思を持って行う自在性を得れるか、これは生きるにあたってとても大事なことなのだ。
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# by xtu_ltu9981 | 2010-05-12 12:10

たたーん、たたーん、たったー、たったらたー

何か、信じるに値するものがあればいい。
そう思うこともある。
何も、信じないほうがいい。
こう思うこともある。
別に、夢とか信念とかプライドとかポリシーとかに限らない。
例えばだが、ニュートンのプリンキピアでは空間や時間が信じるに値するものであり、空間や時間を絶対的基準として物事を表した。
しかしそれは間違いであることが300年後に判る。アインシュタインは空間や時間は絶対的な基準ではなく、光の速度こそが絶対的な基準なのだと言った。物事は光の速度を基準に変化することを表した。空間や時間も光の速度に従属する。
このように、ニュートン力学や相対性理論(一部)というものはこの根本さえ反論なく受けつさえすれば理解は容易い。科学の場合、基準さえ判れば後は観測のみに頼ればいいのである。決して数論的証明は必要ない。
僕たちは何かを理解するときに、絶対的な基準に依存して理解する。そうしなければ地に足を着かない理解になってしまうからだ。
だから、何かを信じたほうが良いのかもしれない。
しかし同時にニュートン力学の依存先であった絶対空間や時間は間違いであることが判った。要するに、理解するために依存していた基準が間違っていたのだ。依存先が間違っていれば、当然それを基にした理解も間違いである。
だから、何も信じないほうが良いのかもしれない。
最近では、アインシュタインの基準となる光速度不変の法則すら破る観測が近年の量子学で見つかった(量子学は不可解な点が多く、未だ理解には程遠いためアインシュタインの説が間違っているとは一概に言えない。しかし、これまでの理論との矛盾点が量子学において数多く発見されているのも事実である)。
かといって、基準がなければ、物事を理解することはできない。
人間は不思議なものである。
ニュートン力学の過ちを200年以上かけて発見したし、コペルニクスが地動説を唱えるまでは何千年に渡って地球が宇宙の中心だと考えられていた。
時間はかかったが、過ちは正された。もし機械にニュートン力学や天動説を元に思考するプログラミングを与えれば何億年かかろうともその過ちを正すことは出来ないだろう。
僕は思うのだが、信じるに値する基準があったとしても、その基準もやはり何かに依存しなければいけないのではないだろうか。相対性理論は光速度不変の法則を基準とし、光速度不変の法則もまた何かを基準に存在するのではないか。
理解をするのに基準である依存先が必要ならば、基準である依存先にも基準である依存先が必要ではないのか。もしなければ、それは地に足を着かない。
基準の基準の基準の基準の・・・etc
この連鎖に終わりが在るのか、僕には判らない。
もしかしたらどこかで終わるかもしれないし、終わらないかもしれないし、環を描いてループしているのかもしれない。
僕は最後の環を押すが、まだ信じるに値するものではない。
いずれ、信じるに値すると結論付けたとしても、僕は常に自分を疑おうと思う。
僕たちは理解を得るために基準を必要とする。だが歴史が語るようにその基準は間違っている可能性がある。だから基準は信じると同時に疑わなければならない。
常に自分を疑って生きることはとてもシンドイことだし、基準を明確にしなければならないという点でもとても難しい。
だがそうできることが機械との差別化を測る唯一の手だと思う。
自分を疑わない人間は機械と同じだ。
ユダヤ人迫害の実行者と思える重要人物をアーレントはこう観測した。「あの人間は普通だ。ただ上司の命令に従っていただけで、彼自身の思考はどこも悪くない」この観測は当時、大きな問題となった。社会は迫害実行者を悪と決め付けたし、同時に悪と思いたかったのだ。
それは自分が悪になり得る可能性を排除したかったからだ。自分があの実行者のようになるはずがない、という証拠が欲しかったのである。だが実際は、普通だった。我々は常に迫害実行者のような、社会的悪、になる可能性を持っているのである。
普通な人間だった迫害実行者の考えはどこも間違っていなかったが、同時にとても陳腐な人間であった、とアーレントは述べた。それは命令にしか従えない愚かさかを諭したものである。まるで機械のようだ、と。
僕たちは常に自分の在り方や自分の信念を疑わなければならない。
そしてきっと、その思惟はエッシャーの登り続ける階段のように途方もないことに気づくだろう。それでも自分を疑い続け、途方もない階段を常に登らなければならない。
自分を疑うことが、人間と機械の差別化を可能にするのだから。
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# by xtu_ltu9981 | 2010-04-25 04:00 | 徒然なる希望と絶望

たったら、たったたらー

・腕時計
腕時計が好きだ。
知性とヴィジュアルをあんなにスマートに表現できるものも少ないだろう。
まず時間の表示という知的な感覚。
それをあんなにコンパクトに収めている。
腕時計を諸都合で買わねばならなかったのだが、そういった楽しさが相まって、10万も出すことになった。
サブ用にもう一つ買おうかと悩み中。

・けいおん!2期
けいおん2期始まりました。
僕が好きだったけいおん!のテンポは少し崩れてしまった印象があるけど、演出は悪くないので期待しよう。
ついでにEDの唯がカッコイイね。EDに限らず唯いいよ。
次はアズサとムギです。その他は替えがきく。

・バイトの新人
「オマエ、マジつまんないな。頭悪いし、顔悪いし、自意識ないし。もっと時間使えよ」
と言ったら次の日辞めた。

・望む恋
君が「好き」だ、この言葉を投げ掛けた当人は疑いすらしないだろう。
その「好き」という感情が本当に『好き』で手に入れたものなのかどうかを。
この「好き」と『好き』は同じ意味を持っていない。
ここに誤謬がおこって、愛の不可知性を助長させる。
ただ、それを理解していたとしても、当人には関係のない話だ。

・知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性
『理性の限界』という本で、僕は初めて不完全性定理に触れた。
これは今の僕からすると純粋にラッキーだったことだと感じる。
この続編が出たようだ。それが『知性の限界』。
『理性の限界』は実際内容に乏しかった。深遠な理解を得るには程遠い。
だが本質は逃していなかったし、読みやすい。
『知性の限界』も恐らくそうだろう。
だから僕が知らないような何かがあることを期待する。
ただなぁ・・・ちょっと本のストックが多すぎて消費できるかどうか・・・
なんなんまじ、ホフスタッターさん僕をどうするつもりなん。こんなに束縛しやがって・・・

・ProArte EXP45
ガットギターの弦を張り替えた。
いつもはEJ-45Cという弦にしているが、今回は少し高めのEXP45。
1~3は大して変わらないな、と思ったらどうもEJ-45Cと同じだそうだ。
4~6はけっこー伸びる音だな、と思った。
ただこれは以前使っていた弦が少し古かったことと関係しているかもしれない。
ついでに言えば音が伸びすぎて気持ち悪い。
だから好きじゃないけど、綺麗な音だとは思う。

・iPad
欲しい。
UMTS携帯と組み合わせれば超便利な気がする。
ただ、便利なのは便利だが・・・利用頻度を考えると微妙だ。
外出中にネット、ワードをストレスなく使えるのは強みだが、それだけとも言える。

・村上龍
JOKERというファッション雑誌に村上龍がコラムを書いていたことを先日知った。
たまたまJOKERを手に取る機会があったので、読んでいると「村上龍」と大きく書かれたコラムページがあった。
『すべての男は消耗品である』という本の元となっているコラムのようだ。
村上龍は断定的書き方とテンポのいい文章力でいつも僕を魅了する。断定的といっても強制的という意味ではなく、こちらの思考の追随を待っている。
だからこそなのか、僕だからこそなのかは知らないが、僕は村上龍の感性にとても共感できる。
今回読んだのは、学問的教育と実践的教育に関する軽い考察だった。
内容は軽い考察を出ない域ではあったが、言いたいことは判るし、そこらへんに転がっている屑みたいな文章とは比較にならないほどスリリングだった。
彼の文章を読んでいると、それに感化されて僕も文章を書きたくなることがある。
良いものを見ると、ついマネしたくなるし、手に入れたくなる。

・一言で説明できるものはない
人間の形を決定付けているものは何だろうか。
この体の形から指の形、はたまた内臓の形や脳の形。
一体何がこの「人間」というモノの形を決定付けているのだろう。
恐らく「胴体」という形すら決定付けるものはない。
恐らく「指一本」すら決定付けているものはない。
それならば、どうしてそれらの形は決定されたのだろうか。
答えは、決定などされてはいない、である。
細胞を増やし続け、維持させるために、たまたまその形に収まったのだ。
それは、どの人間という固体もそれぞれの過程でそれぞれの結果に陥ったということだ。
ほとんどの人間がほとんど同じ形をしているのは、本当にたまたまなのだ。
しかし、たまたま、と言う言い方は誤解を招くかもしれない。
人間の形が「結果」だとすると、「結果」が先にあって「結果」求めて細胞が増えていったのではない。
細胞を増やすという過程がすでに一種の『結果』であり、その『結果』の連なりの結果がたまたま「結果」だったのだ。
別に僕は親父ギャグを言いたいわけではない。
ただ僕はこの考えの連なりで、あらゆる物事は一言で説明できるものではない、という結果を感じた。
僕はインターネットをとても支持している。
色々な情報を得ることができるからだ。
しかしこの大量の情報はとても扱いにくく、そのために「判りやすさ」を求めてしまう。
対象Aというものを理解しようとする。
対象Aは様々な情報が積み重なっているモノなのだが、最近は積み重なった結果のみに頼って対象Aを理解しようとするのだ。
それは大きな間違いで、結果のみを見て対象Aを理解することはできない。
大量の情報に人々が踊らされる、という状態は、嘘の情報の氾濫、に留まらない。どちらかと言えば嘘の情報より、様々な情報を消化し切れない現状が生んだ「判りやすさ」を求めるが余りの錯覚の方が人々を躍らせる原因としては強い。
嘘はそこだけをストップさせることが可能だが、錯覚を止めようとすれば社会全体が止まってしまう。
そして「判りやすさ」という錯覚に陥った結果が現在の資本主義などの利益主義なのだ。利益が出ればいいと言うとても単純なシステムで活動している。
決して資本主義や利益主義が悪いと言っているのではない。
ただそれはこういった錯覚の結果としてあって、いつかは馬鹿らしくなるだろう、と推測できる。
しかしまぁ、人間の理解に錯覚ではないものがあるのかといえば、ないわけだが。
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# by xtu_ltu9981 | 2010-04-22 06:34

たったたーん、たったたーん

「今は何日かな」帽子屋さんは懐中時計を覗き込む。
「そんな古そうな時計なのに、日にちまでわかるの?」アリスは懐中時計を眺めながら尋ねた。
「なぜ古いとわかる?」帽子屋さんはアリスを見つめる。
「だって、錆びてるんですもの」
「ふん。錆びてるからといって古いとは限らんだろう」帽子屋さんはアリスから目を離し、懐中時計をポケットに入れた。
「古くないの?」アリスは少し腹が立ったが、澄ました振りをした。
「いや古い」
「それだと時間しかわからないでしょうに」
「ふん。古いからといって時間しか判らんとは限らんだろう」帽子屋さんはティーカップを持ち上げた。
「もう!」アリスは腹が立った。「自分の間違いはちゃんと認めたほうがよくてよ!」
帽子屋さんは紅茶を一口飲むと「ふう」と息を吐く。そしてティーカップを置かずにこう言った。「ふん。確かにそうだ。自分の間違いは認めにゃならん」自分の意見が通ったアリスは少し嬉しくなって、帽子屋さんの言葉を待つことにした。「だからオマエは自分の間違いを認めにゃならん」
アリスはこの言葉に驚いて、目を丸くして言った。「その時計は日にちを表してるの?」
「そうだ」帽子屋さんは紅茶をまた一口。
アリスは考えた。嘘かもしれない。「それはごめんなさい。私、間違えちゃったみたい。そんな時計があったのね。珍しいわ。もう一度見せてちょうだい」
「ふん。いいだろう」帽子屋さんはティーカップを置き、懐中時計をポケットから取り出した。そしてあろうことか懐中時計をアリスにポイッと投げた。
アリスは「わわわ」と言いながら懐中時計をキャッチする。「危ないじゃない。珍しい時計なんだから」アリスは、どうせ今から嘘だと判る、と信じていたからその言葉は嘘だった。アリスは懐中時計の蓋を開いた。
その懐中時計はパッと見普通の時計と変わらない。だけど周りの数字が違っていた。短針の長さに合わして1から12の数字が環を作り、それより外側を長針の長さに合わせて1から31の数字が環を作っていた。今は短い針が1から12の11と12の間を指し、長い針が1から31の13と14の間を指している。アリスは驚いた。今日は11月13日だ。この時計は他に数字や針はない。アリスが口を開けて驚いた。「ふん。珍しくも何にもなかろう」帽子屋さんは紅茶を飲みながら言った。
「どうして?こんな時計は初めて見たわ。だって日にちより時間の方が大事じゃない」
「ふん。日にちより時間の方が大事とは限らんだろう」
アリスは帽子屋さんのこの言い方が嫌いだったけど、今は気にならない。「だってそうじゃない。日にちはゆっくり変わるけど、時間はいつも変わるのよ。だから日にちはいつも確認しなくていいものよ」
帽子屋さんは紅茶を新しく注ぎ、一口飲む。アリスはそれが少しじれったかったけど我慢して言葉を待った。「オマエは時間と話したことがあるか?」
「ないわよ。当然じゃない」
「それなら時間と話したほうがいい。アイツと友達になれば嫌な時間を飛ばすことだってできるんだ」
「あら、そんなことができるなら友達になりたいわ」そんなことあるわけないじゃない、とアリスは思ったが内緒にした。
「オレは時間と友達だった。だけどオレはアイツを怒らせた」
「それは残念ね」
「アイツが悪いんだ」帽子屋さんはティーカップをテーブルに置いた。置き方が少し強かったので紅茶が少しテーブルに飛び散った。「オレはアイツに、オレがいるからオマエがいれるんだ、と至極最もなことを言うとアイツは、いやいやオレがいるからオマエがいれるんだ、と言いやがる。おかしいだろそんなこと。そんなことあるわけないだろ。な?」
「私にはわからないわ」アリスにとって喧嘩の内容はどうでもよかった。「それより時間と日にちの話はどうなって?」
帽子屋さんはティーカップを手に取りながら言った。「ふん。アイツはオレを6時に縛ってその時計を置いてった」
アリスは意味が判らなかった。「どういうこと?」
「ふん。そのままさ。オレはいつも6時になった。だから時間より日にちが大事なのさ」
「だから紅茶を飲み続けてるのね!」アリスは納得した。6時はお茶の時間だ。
「ふん」
「なーんだ。時間さんも大したことないのね。時間と日にちの言葉が入れ替わっただけじゃない」アリスは懐中時計を帽子屋さんに手渡しで返した。
帽子屋さんは懐中時計を受け取ると、もう一度時計を確かめた。アリスは横目でそれを確認する。あと少しで12時だった。「こりゃ大変だ。そろそろクリスマスじゃないか。紅茶じゃなくてワインにしなきゃならん」帽子屋さんはそういうと急いでキッチンに走っていった。
「帽子屋さんには11月30日に見えるのね」アリスは帽子屋さんを眺めて言った。「だけど変ね。私が最初に見たときは日にちが今日と合ってたわ」アリスは首を傾げて考えた。だけど結局判らなくて「たまたまね」そう言って帽子屋を後にした。
    『不思議の国のアリス7章“A Mad Tea-Party”一部をはやたん解釈で』
“A Mad Tea-Party”という言葉は聞いたことがある人もいるだろう。
不思議の国のアリスで出てくるおかしなお茶会シーンである。
原作者は数学者で、数学者らしい哲学的な解釈、世界観、言葉がとても興味深い。
そういったシーンが信じられないほどのペースで何度となく出てくるのが不思議の国のアリスという作品をこれ程までに有名にさせた所以だと思われる。
何度となくコペルニクス的転回を連想させる世界観に唸らされた。
その一つが上記の会話だ。
上記の会話は原作だと2~3文でしか出てこない。
しかしそれでは余りに勿体無いと思ったので、その部分を抜粋し、大幅に変更して写させてもらった。
だから原作には程遠いし、背景も違う。
それでも不思議の国のアリスという作品の不思議さが少しは伝わるのではないかとも思う。
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# by xtu_ltu9981 | 2010-04-17 09:30 | 徒然なる希望と絶望

たらーたたたたーらたー、たーーら

「オレはもちろんオマエらの関係がどんなのか知らんけど、恋人やからってタバコ吸わんやつの前でタバコ吸うのはアカンと思うぞ」
「んなこと言ったって彼女が吸って良いって言うんやからええやろ」
「確かに、喫煙者はタバコ吸える環境の方が嬉しいやろうな。オレやってその喫煙者がオレに有益ならその分の喫煙を許してるやろ。現にオマエにやって2~3時間に一本許してるやん。オレでこれやったら恋人なんて尚更許すやろ」
「じゃあええやんけ。オレが彼女にとって有益なんやから」
「判ってないなぁ。別にオマエを好きになりたくて好きになったんじゃないやろ。嫌々好きになったんかもしれへんのに副流煙という攻撃。吸わんやつの前でタバコ吸うのは傲慢やねん。オレなら許される、とか思ってるから一方的な攻撃ができんねんな。甘えすぎやで」「オレが元々そうやったし、やからこそ言えるんやから後学に活かせよ」
非喫煙者の前で当然のようにタバコを吸うやつは傲慢だ。
タバコを吸うなら、副流煙分は最低でも補わなければならない。
これは高いハードルだ。
ありふれたキス程度では決してクリアできないハードルである。
喫煙者は「吸ってもいいよ」という言葉が自分のエゴの押し付けであるかどうかを判断しなければならない。
もちろんだが、上記の恋人関係はエゴの押し付けである。
独裁国家の国民は好んでその国に産まれたわけではない。
そして国民はその国家に属することしか許されないし、反抗する方法を知ることもない。
これが喫煙のケースにも当てはまるということを、当たり前のように人前で喫煙する人には理解できないかもしれない。
喫煙が体に悪いと信じていないからだ。
独裁国家のトップもそうだったことだろう。自分が正義で、反抗分子が悪であることを疑わなかった。
別にオレは道徳家になりたいわけではない。
だが、このブログの閲覧者はほとんど知人に限定されるはずなので、親しみを込めて書いておく。
常に自分のシステムを疑うべきだ。
そうできるかどうかが人間とプログラミングとの唯一の違いなのだから。

セックスは攻撃である。
それは男も女も変わらない。
動物の本能と言えば判りやすいだろう。
人間は動物だ。
理性を剥がせば、野生の獣同様欲求に支配される。
だからセックスに愛は存在しない。
しかし、愛する人とのセックスが愛していない人とのセックスと同じだと言う意味ではない。
愛する人とのセックスは、愛と攻撃性のギャップが高揚感を煽るのだ。

これが真理だと思うと、いつも新たな問題が発生する。
発覚ではない。新たな真理だからこそ生まれる新たな問題である。
そしてその問題すらも克服する真理を見つけても、またその真理に問題が発生する。
こうやっていつも真理は消えて行くのだ。
この世に真理などないように。

最近、絵を描いていて思ったことがある。
絵は図形だ。
数学で座標に点や線を書き込むことと同じ。
創造ではない。
トレース、製図、投影・・・そんな言葉が的を得ている。
元よりベクトルは、僕の頭の中にある。

言葉は複雑さを孕んで単純化する。
数学は単純さを孕んで複雑化する。
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# by xtu_ltu9981 | 2010-04-13 04:21

たったーたーらた、たったーたたーらた

哲学、思想に関する本で僕が面白いと思ったものを挙げる。
そのため点数は全て高い。
題名のみの本は未読であるが、期待値が高い作品として載せている。
読んでつまらなかったら何も言わずに消す予定だ。
だからこの記事に関して言えば不定期に更新する。


・理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性  ★4
 高橋 昌一郎(著)

僕が不完全性定理を知るきっかけとなった本。
題名どおり、理性(理解、意味、認識、決定などと考えてもらいたい)の限界についての考えを述べている。
ディベート形式で展開されとても読みやすく、誰でも読める代物だと思う。
そういった点で素晴らしい本だと認定しよう。
これを読めば僕が最近取り組んでいることの概要は理解できるはず。


・ゲーデルは何を証明したか―数学から超数学へ  ★5
 E. ナーゲル (著), J.R. ニューマン (著), Ernest Nagel (原著), James Newman (原著), 林 一 (翻訳)

不完全性定理の解説書。
苦労せず読めるレベルだが、説明不足だとは感じない。
とてもスマートに仕上げた素晴らしい不完全性定理本だと思う。
これを読めば不完全性定理を理解できるだろうし、その理解は不完全性定理という言葉に収まらず新たな驚きを与えてくれるはずである。


・ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環  ★5
 ダグラス・R. ホフスタッター (著), Douglas R. Hofstadter (原著), 野崎 昭弘 (翻訳), 柳瀬 尚紀 (翻訳), はやし はじめ (翻訳)

この本を一言で説明することはできない。(「この本を一言で説明することはできない」という言明は「この本を一言で説明することはできない」という言明にも適用される)
根本的な問題は「私とは何か」「矛盾とは何か」といった哲学的問題、その問題に対する一つの可能性(著者の考え)を示している。
指針としては抽象理論に不完全性定理を使い、それを脳、AIなどの一般化に繋げている。(終盤は意思の在り方を主軸に物理法則などの根本的規制も関わってくる)
エッシャー、バッハの作品は理解へのメタファーとして使用される。
僕の感想は、とても巧くまとめこんでいるな、だ。それは決して文章のまとめる力を指してるわけではなく、内容そのものが根本的問題を巧く総括しているように見える。
名著である。


・メタマジック・ゲーム―科学と芸術のジグソーパズル
 ダグラス・R. ホフスタッター (著), Douglas R. Hofstadter (原著), 竹内 郁雄 (翻訳), 片桐 恭弘 (翻訳), 斉藤 康己 (翻訳)



・エッシャーの宇宙
 ブルーノ・エルンスト (著), 坂根 厳夫 (翻訳)



・無限と連続―現代数学の展望  ★4
 遠山 啓 (著)

他に比べれば数学の要素が高いのでこの系統に入れるべきか悩んだが、狙いはこの類の本であるのは間違いない。
内容はカントールの集合論から非ユークリッド幾何学までを表題として流している。
だが、この本はそういった理論を一つ一つ明確に説明する本ではない。それらの理論が現れる必要性が本来のテーマである。
要するにそれは理論自体とは、理解とは、意味とは、認識とは何かについてという根本的な話だということだ。
僕は話のテンポが好きじゃなかった。1952年の作品だということが理由だと思われる。
とにかく、狙いがとても良い書である。


・カントの自我論  ★5
 中島 義道 (著)

純粋理性批判を自我というテーマを元に一人で読み切ってもらおうとした本だ。
しょうじき難しい。
だからこそと言うべきなのか、一冊で出来る限りまとめ切っている。
僕が何度も読み返したのはそういった理由があってこそなのだと思う。


・トランスクリティーク――カントとマルクス
 柄谷 行人 (著)



・ハイデガー=存在神秘の哲学  ★4
 古東 哲明 (著)

ハイデガーの思想に触れさせようとする本だ。
著者のこの本に対する熱い思いが伝わってくるような書き方で、読みやすい。
しかし、この本でハイデガーの思想に触れるというのは難しい。
ただ、ハイデガーの思想に触れるきっかけを作ることは十分可能だ。


・今こそアーレントを読み直す  ★5
 仲正 昌樹 (著)

アーレントは政治哲学者である。
彼女の思想は政治に転換させやすいから政治哲学者と呼ばれているのだと思う。
僅かに皮肉を入れた率直な文が多く苦笑させられたし、読みやすい。
アーレントは人間の在り方を愚直なまでに考え抜いている、と感じた。
その在り方の一つの結論の中に公共性という考え方が主軸として出てくるのだが、それがとても興味深く、もっと知りたくなった。


・意識の探求―神経科学からのアプローチ (上)(下)
 クリストフ・コッホ (著), 土谷 尚嗣 (翻訳), 金井 良太 (翻訳)



・不思議の国のアリス  ★5
 ルイス キャロル (著), Lewis Carroll (原著), 柳瀬 尚紀 (翻訳)

ディズニーの代表的作品ともなったアリスの原作。
あまりに有名なため幾つもの日本語訳が出されているが、僕はGEBの訳者の一人である柳瀬氏の翻訳本を手にした。
子供向けという印象が強いであろう作品であるが、決してそんなわけではない。
確かに、アドベンチャーとしても出来が良いからワクワクさせてくれる。
だが、それだけではこれほど有名にならない。
この作品の真骨頂は、そういった表題に隠れて何度となく出てくる言葉遊びや論理的悪戯の存在である。
それに気づけば、不思議の国のアリスという作品に感銘を覚えることは間違いないだろう。
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# by xtu_ltu9981 | 2010-04-08 00:15 |