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とぅ、とぅるとぅるー

相対性理論はその名から推察できるように、相対性が重要な理論である。
そのため、相対性理論を知った人間には「世の中は相対的で基準がない!」と言い張る者もいる。
それは大きな勘違いで、相対性理論の相対性が示す意味はそうではない。
確かに、相対性理論は基準そのものが他の基準と相対的に存在し、いつも同じ値を踏むとは限らない。
だが、常に変わらないものがある。
それは、どう相対的であるか、だ。
その、どう相対的であるか、を明確にすることにより、結果も明確にしようとする理論が相対性理論である。

僕には確固たる立場などない。
それは社会的な立場という意味ではなく、僕個人の考えとしての立場だ。
ある時は唯物論を支持するだろうけど、ある時は唯物論を非難する。
僕の立場はころころ変わる。
周りの環境によって、すぐ変化する。
それでも変わらないものがある。
それは僕が周囲に対しての、姿勢、である。
情報をどうやって解釈していくか、それだけが変わらない。

変わり続ける姿勢は、変わらない。
僕が1年前ほどに思いついたキャッチフレーズだ。
元々は車のCMを見ながら、僕だったらどんなキャッチフレーズを用意するだろう、と思って考えた。
主語が違うから矛盾はしていない。
主語をつければこうなるだろう。
行動は変わり続けるが、私は変わらない。
ここで言う、私、とは、相対性、もしくは、情報の解釈方法、となる。

僕たちはいつも、結果に振り回される。
なぜなら、目に映るものは全て、結果でしかないからだ。
世の中に溢れてる情報は全て、結果だ。
しかし、目に見えなくとも、結果にはそれを支えるシステムがある。
そのシステムが、結果に振り回される僕たち、にも存在する。
振り回されてるのは結果だ。
本当に大事なものは、変わらない。

独自のシステムを持っている人の話である。
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by xtu_ltu9981 | 2010-08-31 07:56 | 徒然なる希望と絶望

ちゃらちゃちゃっちゃっちゃー

最近、少し話題になっている授業システムがあるらしい。
小~高までの授業を対象にしたシステムである。
大学では意識せずとも、当たり前のように存在する授業形態かもしれない。

例えば28人クラスなら、4人づつのグループに分ける。
まず先生は大まかな方針を立てる。
例えば「数学の二次関数の問題」「理科の気象の問題」「問題集P67~73まで」などである。
その方針に従ってグループは、グループ独自で自由に問題を解く。
4人中1人が間違っていれば、正解者が間違った人のミスを注意すればいい。
4人中3人が間違っていれば、先生を呼んでミスを注意してもらう。
先生も先生で、常に受動態ではなく、グループ間をうろうろしながら、ミスがないか確認する。
時にはいきなりグループに問題を出し、その解答を確認する。

今までも似たような授業はあった。
例えば、自習時間、などといって個々好きなように問題を解かす授業だ。
それをこの場合は、個人、を、グループ、とした点が主たる違いだろう。

僕はこの授業システムを教師志望の知人から聞いた。
彼曰く、この授業方法は現代の子供たちに向いている、のだそうだ。
上下の繋がりが弱くなった現代は、それと反比例するように横の繋がりが強くなった。
そのため、個人を注意するのではなく、グループを注意すると素直に聞いてくれるのだそうだ。
個人を注意しても、煙たがられることが多いらしい。

「オレはこの授業システムを良いとは思えないな」
「なんで?」
「これじゃ個性が作れないと思う」
「個性って何だよ。そんな簡単に失うもんじゃないと思うぞ」
「いいや、失う」
「なんで?」
「確かに、最近の若者の性質を逆手にとった効率の良い授業形態かもしれない。だけど、まずオレは、最近の若者が良いとは思えない」
「じゃあどんな若者が良いと思えるんだ?」
「さっき、横のつながりが強くなった、と言ってたが、そんな他人に左右されるようなのじゃダメだ。何が必要か、それを自分で判断できるように育てていくべきだと思う。この授業形態だと、他人の意見に同調することが正しいと思ってしまうかもしれない」
「・・・確かにそうかもしれないけど、オマエはいつも現実を見てないんだよ。逆に、個性?を育てるような教育がどういったものなのかを教えて欲しいね。そんな理論めいたことより、結果を出せれば何でもいいんだよ」
「個性を育てる?オレはそんなことは言ってない。オレは、個性を作る、ことが重要だと思ってる。個性の作成は本人でしか成しえない。だから教育者が出来ること、大人が子供に出来ることは、ただ環境を与えるだけなんだ」
「教育者が出来ることは環境を与えるだけ、ってのは判る。だけど、教育者は子供に教育しないといけない。それが環境の一つだからね。その教育の方法を聞きたいんだよ」
「オレはオマエがさっき言ったように理論ばかりだ。抽象理解ばかりで、具体案は持たない。だから具体案を知りたければ自分で考えるしかない。オレはただ、抽象的なレベルでしか話さない」
「勝手なやつだな」
「そうしないと、個性が作れない」
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by xtu_ltu9981 | 2010-08-29 11:32

だらだだらだーだらだー

キリスト教の国は、明確な正義、というものがあると思います。

はい、そうですね。

日本にはそういう明確な何か、というのはとても少ないんですね。
日本はなんというか、基準そのものが相対的なんですよね。
だから正義についても、何か明確なものがあるんじゃなくて、自分だけじゃなくて周囲の人が思う正義、というのも混ぜて考えようとするんです。
だから曖昧になるんですよね。

はい、判ります。

少し話が変わりますが、日本を、自由主義、と認識してる人が多いですが、僕はそう思わないんです。
僕は日本を社会主義だと思うんですよ。

日本と欧米が言う自由主義と社会主義、というのは違います。
欧米は日本のことを社会主義だと認識してる人も多いです。

なるほど。
恐らくキリスト教の方や、欧米の方には共感できない点だと思うんですけど、日本人は仕事に個性を感じるんですよね。

それは禁句です(笑)
アメリカやヨーロッパでは絶対ないです。

日本人は仕事を真剣にこなす事によって、自分の個性を作る、という感覚が多いように思います。
仕事、というのは多くの場合、組織としての行動です。
個人としての行動ではないんですよ。
この考えは、やはり社会主義なのかな、と思いますね。

日本は、良い学校にいけば良い仕事に就けて、そうすれば幸せになるって方程式があるように思います。
ソ連とまではいきませんが、ソ連に近く感じますね。

なるほど。

アメリカはそういった考えが小さくて、もっと自由です。
私の友達は小さい頃から、宇宙飛行士になりたがっていました。
けど彼の家は家計の事情で良い学校に行くことはできなかったんです。それでも努力を重ねて彼は宇宙飛行士になりました。
アメリカには能力さえあれば、やりたいことができる自由があります。
日本はアメリカに比べてそういう自由がとても小さく感じます。

日本は個性があまり尊重されませんよね。
知識があれば尊重されて、知恵があっても尊重されない傾向があると思いますね。

ハハ、それは少し言いすぎかもしれないですけど、日本の社会主義的な考えにも良いところがあります。
電車で忘れ物したら日本ではそれが返ってきます。
アメリカじゃありえません。
絶対戻ってきません。

ええ、ええ、確かに日本人は組織としての行動が得意のように見えるかもしれません。
だけどサッカーは弱いんですよ。
テクニックやフィジカルの問題もありそうですが、それ以上に戦い方がダメだと思います。
日本の選手は自分の好きなようにプレイしてるんですが、それじゃサッカーはダメなんですよね。
サッカーはチームとしての方針を皆で決めて、その方針に従属する、その方針に従い続けることが重要なんです。
それが日本のサッカーではできてないんですよね。

それはとても良い例えです。
ですが、それは日本の社会主義的な性質と違います。

はい、日本人は自分で何かを決定する力がとても足りない、と思います。
だから、組織的な行動、というのもやはり下手なのではないかな、と思いますね。
組織的な行動、言葉上は個人としての行動ではないように思ってしますが、やはりこれも個です。
社会主義的な行動、というのは行動内容が組織的、なだけであって、その行動決定は欧米も日本に違いがない、と思います。
その行動決定の方法が、日本は周りの眼を気にしたりして、曖昧になるんですよね。

貴方の考えはExtreme freeとソ連の中間のように思えます。

ああ、はい、そうかもしれません。
僕は自由を規則だと思っています。
そして、規則を決定するのは自分だと思います。
エクストリームフリー、究極の自由、は存在し得ないと思いますし、存在したとしても、人類にとって歓迎できるものではない、とも思います。
個人としては少し興味ありますけど(笑)




つづく・・・かもしれない。
きっと続けない。

バイト中に外人のお客さんがやってきて、そのお客さんとの会話の一部。
アメリカ人で牧師さんとして日本にやってきたそうである。
話が面白かったのか「今度名刺持ってきます。メールしましょう」といって帰っていった。
面白そうな出会いである。
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by xtu_ltu9981 | 2010-08-25 09:09 | 徒然なる希望と絶望

たらたらた、たらたらった

同じラインに立つことによって、個性の必要性が見えてくる。
個性を尊重しない人が多いのは、同じラインに立ててないからだと思う。
「人間誰しも個性がある。だから人それぞれ、それはそれでいいんじゃないかな」
この発言は、個性なんてどうでもいい、と言っているのと同じである。
今はある程度の努力さえすれば、知識レベルでは同じラインに立てる世の中だ。
調べようと思えばインターネットもあるし、情報は簡単に手に入る。
だからこそ、真剣さの有無によって個人差が開きやすいのだが、僕はこの状況が人間の進化の礎になるのではないか、と思っている。
誰もが情報を共有できる環境にあり、社会環境的にイーブンな環境に近づいている。
そこで他人との差異を見つけるのに必要なのが、次のビジョンだ。
そしてそれが、個性だ。
個性は他人より増さった知識量ではない。
同じ知識から得れる、新たに産み出した知識、それを個性と言う。
多少の努力があれば、既存の知識は手に入る。
その次を見出すこと、それが可能性だし、それを得なければ自分を失ってしまうとも思う。
なぜなら、個性を見出せない人間、それのどこに自分があると言えるのだろうか。
個性の獲得が、次世代の可能性だと感じる。

インテリジェンスとは、ただ知識があることを言うのではない。
インテリジェンスとは、他人との差異を見極めれることだ。
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by xtu_ltu9981 | 2010-08-22 08:58 | 徒然なる希望と絶望

だっただらったー

結果を重視して物事を進めていくと、とても狭い世界になる、と考えます。
無難な選択肢がある中で、よく判っていない選択肢を選ぶ、というところに、僕は可能性を感じます。
その行動に結果がついてこなくても、その行動は間違ってないんです。
結果の良し悪しより、無難な選択肢に依存しない、常識を考え直していく姿勢、それが重要だと考えます。
そこで初めて、アイデンティティが生まれるのだと、思います。
判ることだけをやっていると、個性はなくなって、成長もなくなるように感じます。
判らないことを判らないままにするのではなく、判らないことを追求していくことに、個性が現れるのだと思います。
それは、人間としての本質を現しているのではないか、とも思わせます。
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by xtu_ltu9981 | 2010-08-20 16:08 | 徒然なる希望と絶望