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だっだー、だらだらだっだー

イングランドの完成度が低かったのは確かだ。
カペッロ監督は元々ああいった、最後には個人技に頼るサッカー、をするから完成度は高いといえば高かったのかもしれない。
だが、傍から見る限りだと、スピーディーさはなかったし、何よりスムーズさがなかった。
ジェラードの動きがその象徴と言える。彼の動きは中途半端だった。
彼の動きがイングランドの連携を崩していたのか、連携が崩れていたから彼が彼らしい動きをできなかったのかは判らないが、とにかく連携はなかった。
それでも、やはりイングランドだ、と言わせる時間帯もあった。
誤審がどうとか言う話が少ししか挙がらないのは、ドイツが圧倒的に強かったからだと思う。
イングランドは本調子ではなかったし、ジャッジはたまたまドイツ有利に働いたけど、それを除いてもドイツが圧倒的に強かったのだ。
その後に行われたアルゼンチンvsメキシコもアルゼンチンの強さを引き立たせた試合になった。
これもまたミスジャッジではあるが、アルゼンチンに有利な判定が行われてアルゼンチンが先制点を挙げる。
だがそれを抜きにしても、やはりアルゼンチンが強かった。
このワールドカップで一番何かを期待させるメッシと、イグアインの圧倒的な決定力とずる賢さ、テベスの技術にベンチにいるミリートやらなんやら、攻撃陣の名前を挙げればキリがない。
皆、名前を見るだけでワクワクさせるし、しかも調子がいいと見える。
アルゼンチンもドイツも、攻撃に厚みがある、という表現が正しいのかもしれない。
攻め始めると、画面を見るだけで色々な可能性を思わせる。
縦に走る選手、斜めに走る選手、オーバーラップする選手、全ての選手が緩急をつけてスペースを作り、全ての動作が連動している。
まだ調子を上げてくるチームがあるだろうから、優勝はここだ、と推測することは難しい。
もちろん言い切ることなど尚更ありえない。
しかし、現在の仕上がりで言えばドイツとアルゼンチンが抜き出ていると思う。
それに両チームとも選手が若い。
ワールドカップは中4~5日しか空かないハードスケジュールである。
それを戦い抜くにはやはり若い方が有利だ。
そんな両チームが準々決勝でぶつかる。
このワールドカップきっての好カードなのは間違いない。
以前に書いたかもしれないが、ワールドカップは決勝よりも準決勝、準々決勝の方が面白い。
それは見る側もやる側も、精神的な豊かさが原因としてあるのだと思う。
このカードは見逃せない。
・・・とかいいながらバイトなんだが?
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by xtu_ltu9981 | 2010-06-29 02:40

たらたらー、たーらたー

中田がいなくなってからの日本代表は信じられないほどつまらなかった。
中田はボールを持つだけで期待をさせた。
彼の卓越した戦術眼とパス精度は、当時の世界を見てもトップクラスだった。
いや、当時、彼を越える司令塔はジダンとルイ・コスタくらいだったと僕は思っている。
その頃からも少し話題に登っていたが、日本代表は中田に頼りすぎた。
日本の攻撃全てが中田を中心に回っていたのは確かだった。
監督の采配問題とかもあっただろうから、一つの理由に収めることはナンセンスだけど、司令塔を失った日本は色々な音楽を同時に再生しているみたいにチグハグだった。
どの選手も全く違うテンポでプレイしていたし、何のまとまりも持っていなかった。
そのまとまりをデンマーク戦で日本は少し見せた。
まだ足りないが、0と1の差は言うまでもなく大きい。
カメルーン戦はカメルーンがへぼかった。確かに本田、松井、大久保が常にプレッシャーをかけていたからの得点ではあったが、拡散していた。
オランダ戦はオランダの圧倒的な力に竦んでいた。といっても僕は後半を見ていないので、前半だけでの評価である。後半は良かったと聞いているから、もしかしたらその辺りから、一つのテンポ、を見つけたのかもしれない。
日本は、一定のテンポ、を見つけていなかった。
ある人はそういったことを、チームの団結力、結束力、意思疎通、とかそういった言葉を使うだろう。
イングランドも予選最後の対スロベニア後半まで、何一つとして彼らのテンポを見ることはできなかった。
点の取り方が判らなかったに違いない。
調子の良いチーム、勝てるチーム、というのは元から点の取り方を知っているわけではない。
そういったことは、勝ちながら、点を取りながら、自然に見極めていくものだ。
結局イングランドは1点しか取らなかったが、いつ追加点をとってもおかしくはなかった。前半に決めた1点が、カペッロ監督のつまらない戦い方に一つのテンポをもたらしたように見えた。
中田がいた頃の日本は簡単だった。まず中田にボールを渡し、攻撃を組み立てる。
今回のイタリアもだ。ずっとぐだぐだな戦いを続けたイタリアは最後の最後に負傷中のピルロを投入した。
それからのイタリアは本当にイタリアだった。ピルロは常に首を動かし周囲を確認していたし、ボールを貰うと決定的なパスを出せた。だから自然とボールはピルロに集まってくる。イタリアが、攻撃の起点、を見つけた瞬間だった。
司令塔がいるチームはそういった、一定のテンポ、を持ちやすい。司令塔がそのテンポを提供できるからだ。
今回の日本にそういった選手はいない。
だからチーム全体が、そのテンポを見つけなければならない。
音楽で言えば、ベースもドラムもなしで一斉に楽器を奏でるようなものだ。
もちろん最初はテンポが合わない。
一定のテンポを得ようとして、ある人はテンポを下げるだろうし、ある人はテンポを上げるだろう。
皆が試行錯誤するからチグハグになる。
だが、そういった試行錯誤の結果、やっと日本に一定のテンポが見え始めている。
次のパラグアイ戦の日本はデンマーク戦よりもっと完成度が高いだろう。
もしそこで勝てば、また日本の完成度は高くなるはずだ。
相手ももちろん強豪で、勝てる、なんてことを言えるはずがない。
だが、今の日本は成長する様が生生と見えて面白いし、だから勝って欲しい。
今まで中田頼りだった日本のサッカーに、新たな旋律を見せて欲しい。

トルシエ時代はトルシエが日本代表に一つのテンポを与えた。
そのテンポに従うことを強制した。
ジーコ時代は中田が日本代表に一つのテンポを与えた。
そのテンポに従うことが、勝ちへの近道だった。
では、少し前までの日本はどうだろう。
誰もテンポを与えなかった。
皆、自分のやりたいようにプレイしていた。
それなのにどうしてあんなにも、つまらない試合だったのだろう。
どうして制約も何もないプレイが、あんなに閉塞感溢れたプレイだったのだろう。
僕が見たのは自由ではなく、エゴイズムだった。
エゴや欲求に支配された、どこにも意思を感じることができない、不自由さだった。
今の日本は一つのテンポを見つけ始めている。
そのテンポに縛られることは言葉上、不自由、に見えるかもしれない。
だが、それを自ら選択するところに自由はあるのだ。
真の自由を手に入れたチームは、必ず強い。




しかし、恥ずかしい話だが、僕は日本代表をバカにしていた。
カメルーンに勝ったときも思ったし、デンマークを破って決勝Tに上がったときも思ったことだ。
試合後、岡田監督や選手たちのインタビューを見ながら、泣くのではないだろうか、と思ったのだ。
しかし彼らにそんな仕草を見なかった。
彼らは次を見ていたし、喜びを感じながら、満足を得ていなかった。
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by xtu_ltu9981 | 2010-06-25 16:28

ちゃ、らーらった、ちゃーらちゃーらたー

自分の意思を持って決定する姿勢、これが自由だ。
だが、自分の意思とは何だろう。
周りの屑たちを見て常々思うのだが、彼らは何も考えてない。
もっと色々考え、納得ができるまで考え抜き、自分の意思を持って決定すべきだ。と思いながら、僕も彼ら屑たちと同じなのかもしれない、と思う。
どれだけ考えても、それは僕の視点にしか留まらない。
どれだけ考えても、所詮与えられた情報を吟味するだけ。
どれだけ考えても、真理には程遠い。
何も創り出さないし、情報に操作されているだけなんじゃないだろうか。
そして結局、美徳や偏見に頼って決定するしかなくなるような、そんな感覚に陥る。
それは自由には程遠い決定方法ではないだろうか。

僕に明確な立場などない。
いや、ない、とも言い切れない。
判らないのだが、判らない!と言い切ることも違うし、違う!と言うことも違うのだ。
僕が大事にしているのは姿勢だ。
例えば自由論を書いたミルは、苦痛からの解放、といった。
例えば理性批判のカントは、義務の動機が重要だ、と説いた。
例えば当時の哲学者から批判が相次いだファイヤアーベントは、私が批判するものは妄信的信仰のみである、と言った。
彼らが言いたいこと、僕が言いたいことは、結果が重要なのではない、ということだ。
その結果を導く過程、そこにあるはずの意思が重要なのだ、と言っている。
不自由とは物理法則であったり、生物的束縛であったり、感情的束縛であったりするけれど、それとは別のレベルで捉え、成すべき事を成すこと、これが重要なのだ。
不自由から脱出できれば自由になるのではない。
不自由からの脱出を試みることが自由なのだ。
だから集合論的に考えれば、自由は不自由の中にあることになる。
そしてこの言葉を鵜呑みにして自由を求めることも、自由には程遠い。

さらっと言ってしまったが、軽く読み返してみて僕の理解を映し出してる文を見つけた。
「不自由とは物理法則であったり、生物的束縛であったり、感情的束縛であったりするけれど」
例えばビルから落ちれば下に落ちて死んでしまう。
これは物理法則や生物的束縛によるものだ。自由ではない。
例えばマクドナルドでチキンフィレオとエビカツバーガーのどちらにしようかを選ぶとき(味以外の評価どれも同じだとする)
その決定は物理法則と生物的束縛による味覚と
その味覚の好みを決める感情的束縛に頼ることになる。
こういったことは自分の意思で決めているのではない、ということだ。
僕は過去に、お腹を満たそうとするのは自分の意思ではない、と恐らく書いたことがある。
お腹を満たそうとするのは、空腹、という自分以外からのプレッシャーによって決めているにすぎない。

カントが例えでこんなことを言っている。
他人のために尽すことが大好きで、他人に尽している人間がいる。
カントはこういう人間を善き人間だとは認めない。なぜなら、自分の利益、欲求のために利他的行動を取っているに過ぎないからだ。
もしこの人間が、ある事件をきっかけに他人に尽すことが大嫌いになったとしよう。
それ以降この人間は他人に尽そうとはしなかった。
そんなある日、この人間の目の前で子供が溺れかかっている。この人間以外にあの子供が溺れていることを知っている者はいない。
人間は「助けても僕が不幸になるだけだ」と考えた。
だが人間は子供を助けた。
その時の人間の思惟はこうだった。「しかし、助けるべきだ」
こういう人間をカントは善き人間だとする。
この例は極端であるが、僕も同じ意見である。僕は利益主義者(功利主義者)が嫌いだ。
僕は結果主義ではない。結果はどうでもいい。重要なのは動機だ。
結果を求めて行動するのではなく、成すべきことを成して結果を得ること、これがカントが言う善き人間であり僕が言う自由な人間だ。
だから、夢や目標や目的を持つことが重要なんだ、という言葉は誤謬を持つ。
僕がこういった言葉を使う時は、結果的に夢に向かってしまう、と言っているだけであって
一般ぴーぽーが言う、夢に向かうこと自体が素晴らしい、などではない。
夢に向かうことが素晴らしいという考えを実行すると、視野は狭くなり目的のためにしか動けない機械と変わらなくなる。
ファイヤアーベントではないが、僕は方法への挑戦を続けていこうと思う。
これはただ姿勢を示しているだけであって、何の結果も用意されていない。
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by xtu_ltu9981 | 2010-06-18 19:02 | 徒然なる希望と絶望

だだーだだーだだーだだーだだだ

不自由からの脱出を試みなければならない。
その姿勢が自由だからだ。
その姿勢を失えば、一生不自由だし、自由は判らない。

嫁姑喧嘩で婆さんがウチに泊まっている。
喧嘩の内容は単発というより、つもりに積もった鬱憤を姑が爆発させたようで修復は難しそうだ。
そしてなぜか、その喧嘩の仲介役に僕が抜擢される。
まぁしかし妥当な判断ではあるのかもしれない。
「君はまるで機械のようだ。切れ者だけど、人間味に欠ける」といった内容をよく言われる。
そんな人間は仲介役にはぴったりかもしれない。
まぁとりあえずそんなことはどうでもいい。
僕はこれまで老人と接する機会をほとんど持ったことがなかった。
だから老人というものを知らないし、婆さんという身内ですらあまり知っている仲ではない。
今回の件で始めて老人に接する機会を得たわけだが、とにかく彼女は人の話を聞かない。
それを何度も注意したのだが、もちろんそれも聞かない。
母親は老人に接する仕事をしているのだが「老人ってのはそういうもんなんよ」と言う。
僕が、そういう老人にはなりたくないな、と言うと母親は「老人になれば仕方ないんよ」と言う。
母親はそろそろ50歳だ。
老人数歩手前といったところだろう。
それなのにまるで、自分が老人になったことがあるかのように老人を語るのだ。
僕はそういう人間になりたくない。

プロフェッショナルというNHKの番組で、三浦和良の特集を見た。
僕はカズのプレイが嫌いだ。
ボールを持つことが好きでパスを出さないのに、足元がバタついてるし、シュートは浮くし、とにかく下手だったからだ。
だが人としては好きだった。
もちろん僕が持っているカズへの理解なんて大したことがない。
それでも未だ現役で、高校卒業と同時に単身ブラジルに渡り、30を過ぎるとヨーロッパでプレイし、何より人を惹きつけるスター性を持っている。
番組内で一番印象的だったのは、30歳くらいに感じた分岐点に関する話だった。
念願のワールドカップ出場を決めた98年。
カズがそのメンバーから漏れた時の話だ。
「これからどうしよう?そう思ったんです」
元々ピークを過ぎたら引退しようと思ってたんです。それでもいざその時になると、これでいいのかな?と思ったんですよ。今思うと、その時が僕のサッカーの本当の始まりだったんだと感じます。
カズは今43歳。
自分より若い選手に混じってとても厳しい練習に参加している。
歳を取れば体は衰えるし、怪我も多くなる。
だからこそかもしれない。声を張り上げ、体を張って走り回り、ランニングではいつも先頭を走り続け、監督にアピールし、レギュラーを獲得しようとする。
僕はカズを見て、なんて自由なやつなんだ、と思った。
その一番の要因は自分にストイックで、妥協せず、責任を持っている点だ。
30歳のときに自分で決定した人生を真剣に実行している。
自由だから人生を自分で決定できるのではない。
人生を自分で決定するから自由なんだ。
重要なのは自分の意志で決定することだ。

諦めなければ夢は叶う。
その真意は、諦めれば夢は叶わない、ということだ。
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by xtu_ltu9981 | 2010-06-12 12:07 | 徒然なる希望と絶望

らららーららららーららー

時間がない?
それは、これより大事なことがある、ということか?
ならこう言うべきだ、時間を用意しない、と。
責任は元より自分にしかない。
その姿勢を理解して、初めて自由になる。

ドラゴンネストを最近やり始めた。
久しぶりのクリックゲー感覚である。RO以来ではないだろうか。
まだやり始めたばかりだからディテールのオモシロさはわからない。
だけどアクション要素が強くて躍動的だし、敵の群れがすごくて攻撃を当てると爽快だ。
そして今のところ難易度もちょうどいい。
ちょっとした気分転換にオススメである。

藤井猛先生が竜王戦2組優勝!
彼は将棋の棋士であり、知名度で言えば羽生、加藤一二三に次ぐのではないだろうか。
今年でA級10年連続在籍し、かなりの実力者であり、あだ名はファンタジスタ、座右の銘は我自我自。
僕は彼のファンで、序中盤の捌きに何度も興奮させてもらっている。
これ程までに抽象さと緻密さでの序盤の構想を理解している人はいないのではないかと思う。(僕は常々思うのだが、小中学生の授業に将棋を取り入れるべきだと思う。週に1時間、いや月に1時間でもいい。藤井の捌き、羽生の妙手など、色々な知的興奮材料が将棋には存在する。こういったものを知れば頭を使うことの楽しさを知ることが出来るだろうし、それは色々な取り組みに反映されると思うのだ)
そして軽快なトークは人柄の良さを漂わしてるし、何よりユーモアを感じさせる。
近年では終盤ポカが増えていて、必勝形とまで言われる形から負けることが何度かあった。
そのためニコニコでは「さて、藤井優勢だし風呂いってくるわ」「フラグたてんなw」というやり取りが毎回出てくる。これは、逆転負けが印象に残っている棋士、ということだ。
そんな人がまだA級だなんて信じられない話ではあるのだが、集中力が切れるのだろうか?
歳のせいかもしれない。羽生も最近は終盤ポカが増えているらしい。
ただ今期は最初に書いたとおり、竜王戦2組を優勝したし、ここ数局の勝率はとても高い。
またタイトル戦に出て、華麗な指し回しで僕を興奮させてほしい。

最近、脳に関する本を読んでいる。
大まかな内容は、人間をコントロールしているのが脳だという前提で脳を探究し同時にコントロールの結果(意識など)に結びつく現象を見出す試み、である。
今から、脳について学問的なことを語ることはしない。
ただ僕が言いたいのは、こういった生物に関する本には、生物実験、というものもあって、それはサルとか猫とかマウスを対象にしてやるんだけど、そこらへんを読んでると興奮するよね。
今読んでる本に関して言えばほとんど結果しか書いてないから惨さはなかなか出てこないけど、脳に色素を加えたり、一部を破壊したり、電極突っ込んだりしないとその結果は得られないはずなんだ。
それを想像するだけでホント興奮するよね。
で、まぁメタファーで意図せず脳に障害を負った人の話が出てきたりするけど、人間はサルや猫やマウスと同じなんだな、と思わせて興奮を助長させるわけ。
ああああああああああああああああああ。



経済成長、西欧文化へのアピールは終わった。
今ではアメリカ、中国に次ぐ経済力を誇り、スポーツやアニメまたは日本の昔からある文化は世界に必要レベルで認められている。
では、日本はこれからどうしたいいのだろうか。
戦後、日本は経済と文化の発展に力を注いだ。
中卒から大卒の人間が内容は違えど汗水流して仕事をし、西欧スポーツのサッカー、野球、ウィンタースポーツに取り組み、柔道を始めとする日本文化の輸出で欧米に追いつこうとした。
元を辿れば、欧米に追いつこうとしたのは明治維新の頃からだったのかもしれない。
しかしそれももう終わった。
問題はこれからの日本だ。
今、日本は岐路に立っている。
20~30年前の欧米を夢見た高度成長期時代ではないのだ。
大人からの命令に従っていれば、うまく行く時代は終わっている。
選択を間違えれば日本経済は衰退するだろうし、生活レベルは落ち、日本の魅力は失われて行くだろう。
良い選択をすればこのままの、もしくはこれ以上の生活レベルが確保できるかもしれない。
今ある選択肢に現時点で良し悪しを付けることは出来ないし、元より良い選択というのがあるのかすら判らない。
ただ判るのは、確かなレールなどもうない、ということだ。
これからは自分で選択しなければ良い選択を選ぶことはできないだろう。
現在、僕の世代の人間は自由だ。
30年前だとそうは言えなかったはずだ。
30年前は大人が正しかった。用意されたレールに乗れば、成功した。
今の大人はそうやってレールに乗って成功した人間が多い。
だから親切心からか使命感からかは知らないが、若者にレールを引いてやって「これに乗れば君たちは成功する、私のようにね」と言うのだ。
それは古い考えで、現在の日本には適応されない。
だから自分で選択し、自分で責任を負わなければならない。
何も悲観することはない。
僕たちは選択する自由を持っている。

モノを盗んではいけません。
人を殴ってはいけません。
イジメをしてはいけません。
悪さをしてはいけません。
勉強をしましょう。
スポーツをしましょう。
本を読みましょう。
夢を持ちましょう。
こんなことを言うことしか出来ない大人に着いて行く価値はなくなった。
彼らに着いて行っても価値はない。
だから大人は考えなければならない。
もう僕たちに従来どおり着いて来ても価値がない。だから他の方法を考えよう。じゃあ公園を作ろう、ゲームを配布しよう、パソコンを配布しよう、インターネットを公共化しよう。
ヨーロッパでは多くのサッカー場や公園があるらしい。そこで子供たちはサッカーをして遊んでいる。それを見て親は安心すると言うのだ。「サッカーをやっている間は悪さをしない」
こういう考え方を今の大人たちは見失っているのではないだろうか。
必要なのはエネルギーの発散場所、所謂、楽しさの提供である。
楽しさの提供には言葉ではなく、何より環境を提供することが重要だ。
何かに打ち込め、と無責任に言うのではなく、何かに打ち込める環境を提供し、そこで選択の自由を与えること、これが教育だと思う。
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by xtu_ltu9981 | 2010-06-10 14:46

だん、だーだん、だらぁ

「君の魅力は何かな?」
「僕の魅力を説明することはできません。僕の魅力は色々な要素が絡まって、その結果として現れる幻のようなものだからです。しかし、そういった複雑なシステムを持つというのは、魅力的な人間であるための条件でしょうね」
「それは魅力がないということかな?」
「魅力というのは元より他者の意見ですから、僕の魅力の有無もやはり他者の自由です」
「ふーむ」
「ついでに言えば、僕の発言を理解していれば、魅力というものを語ることがナンセンスということになります。もし魅力というものを見出したいならば、僕の言動を見てもらうしかないでしょう」

脳はとても複雑だ。
脳には視覚、聴覚、痛覚、記憶などなど様々な分野があり、それらが相互作用してこの現実を得ることを可能にさせる。
視覚という分野だけを見ても、色、角度、縦、横、運動方向・・・詳しくは知らないがそういった分野にまた分けることができる。
どれか一つ判ったところで、この現実は判らない。
どれか一つ欠けるだけで、この現実は発生しない。
全て判らなければ、この現実は発生しない。
哲学の論文もこれと似ている。
哲学書なんてのはつまらなくて欠伸を何度も出しながら読むのだが、最後の数行を読むと、いきなり視界が開けて欠伸など出るはずがないと思えてしまう。
それは最後の、まとめ的な部分を読んだから、ということではない。
全部読んで、全部理解しなければ、その人の哲学は理解できない、ということだ。
一箇所だけ、一文だけ読んで理解できるようなレベルの話ではないのだ。
全て理解して初めて一つの理解が完成する。

サッカーには戦術的ピリオダイゼーション理論というものがある。
これは練習方法に関する思惟だ。
素晴らしい結果を残しているモウリーニョという監督が練習の軸に置いている考えとして有名だ。
かく言う僕も、モウリーニョで始めてこの理論を知った。
戦術的ピリオダイゼーション理論曰く、サッカーというものは流動的でカオスでフラクタルなんだから実践練習が一番なんだよ!ということだ。
まぁこの理論を一般化(実践化)すると、実践練習に重きを置く、ということになる。
その根底となる考え方は、サッカーを分野分野に分けて考えるのではなく一つの生き物のように見ることに始まる。
何箇所かの分野に分けて練習しても価値は小さい。サッカーは11対11という環境そのものであり、別個に練習することはサッカーの練習にはならない。
もし右MFの選手はサイドを縦に走るのではなく中央に切り込むことを好むならば、右サイドは手薄になるだろう。しかし中央に切り込むことによって中央は手厚くなるしボランチの選手が攻撃参加しやすくなるだろう。すると敵も中央に選手に固めるかもしれない。その時左サイドにスペースができる可能性がある。そこを使えば攻撃が成功するかもしれない。
これは一例だが、サッカーというのは全ての選手が相互作用して織り成すものだ。
ハーフラインあたりでごちゃごちゃとパスを回している場合キーパーは関係ないんじゃないだろうか?いいや関係している。キーパーがいなければゴール向かってシュートを撃つだけなのだから。
もちろんこうは言っても、個々の力というのは必ずサッカーには影響するし、DFの位置が~MFの連携が~など分野ごとに考えるほうが効率的な場合もある。
だが戦術的ピリオダイゼーション理論では、そういったケースは特殊なケースである。
サッカーは足し算ではない。
だからどこか一箇所を変えるだけで強くなることはないのだ。
全てを総括して考えることで始めてサッカーを理解できる、そんな考えが根底にある戦術的ピリオダイゼーション理論を知った僕は当時とても衝撃を受けた覚えがある。

不完全性定理というのは結果だ。
システムはどこもおかしくない。
システムは正常で正確で確実だ。
だから現れる、不完全、という正常で正確で確実な結果なのだ。
矛盾などしていない。

「しかしそこまで言うなら今の僕が過去の僕を省みて、魅力を探ってみようと思います」
「聞きたかったのはそこだよ」
「頭脳明晰、運動神経良好、ストイックですが同時に、思惟は不完全で、足は遅くて体は固く、飽き易い傾向も持っています」
「結局どういうこと?」
「特徴がありすぎて、説明することは不可能なほど、複雑で魅力的だと言うことです」
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by xtu_ltu9981 | 2010-06-06 07:45 | 徒然なる希望と絶望