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ちゃーらぁたったーらぁ

布団に包まり小説読み続けた。
カメラ持って散歩した。
目瞑って自分について考えた。
訴えるようにギター弾いた。
コーヒー片手に専門書読み耽った。
缶ビール片手に深夜の公園徘徊した。
酔いに揺られて歌歌った。
安いウィスキー自転車のカゴに、深夜の道路縦横無尽に走り回った。
たまには、と良い酒グラスに注いで音楽聴いた。
そしていつも、自由になったら、と考えて、自由なんてない、と思う。

僕には翼がないから、空を飛べない。
僕には脚力が少ないから、音速で走れない。
僕には腕力が少ないから、地球を割れない。
僕には・・・etc

時間がない、と誰かが言った。
忙しいから、と誰かは言った。
それにしては彼らは時間を使って、何かをしていた。
彼らは常に社会に指示され動いていて、それに少なからず喜びを感じている。
だから自分のために使う時間は少ない。
僕は指示されるのが嫌いで、時間の使い道は自分で決めようと思っている。
だから、時間がない、とか、忙しいから、などとは言わない。
時間を用意するかしないかは僕次第だ。

僕には翼がないから、飛行機を使う。
僕には脚力が少ないから、車を使う。
僕には腕力が少ないから、ドリルを使う。
僕には・・・etc

いつも僕は規則に縛られ生きている。
どう足掻いても、僕は物理法則から逃れられない。
どう足掻いても、僕は僕から逃れられない。
だから、現状をできるだけ活用しようと思った。
できないことはある。
だからといって、関係はない。
僕の意思がある限り、自由は切り開く。
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by xtu_ltu9981 | 2010-05-29 04:10 | 徒然なる希望と絶望

だだらだだらだだらだだらだ

太陽は膨張すると温度が下がり、縮小する。
縮小すると温度が上がり、膨張する。
このアンバランスのようで確実な運動に支えられ、太陽は何十億年とこの宇宙に滞在している。
情報というものもこれと似ているかもしれない。
情報が増え続けると、人間はそれの単純化を試みる。
そしてその単純化された情報がまた新たな情報を作り、情報は増え続ける。
食事という言葉も元は、栄養分を口に運んで胃に落とす、という言葉の略語なのかもしれない。
まぁこんな馬鹿げた極端な話はないが、似たようなことを感じている同世代の人間はいると思う。
なぜなら僕の同年代というのはほとんどが大学生であり、彼らはそこで始めて一種専門的な知識に出会うからだ。
専門的な分野は専門用語が多い。
専門用語は略語や単純化の代表的存在と言えるだろう。
数学では定理というものがある。
定理とは公理と規則から導かれたものだ。
公理と規則を間違えずに使用して定理を求めると、一般的にはそれを、証明、と言う。
そして証明された定理は今後、何の疑いもなく使用が可能となるし、この定理を使用する証明が現れるかもしれない。
定理が新たな定理を生むのである。
しかし、やはり根本としてそこには疑問を抱かざる得ない。
証明に使用する過去に証明された定理は本当の正確なのだろうか、ましては使用しようとしている定理を導いた公理や規則に問題はないのだろうか。
数学者がこの問題に触れるのは必要なときだけであり、基本的にはこの問題は放置される。
数年前にフェルマーの最終定理(aのn乗+bのn乗=cのn乗となるa,b,cはn≧3に置いては存在しない)が証明された。
ほぉ、証明されたのか。というのが僕の印象だし、こういったa,b,cは確実に存在しないのだ、と僕は振舞うことになるだろう。
だが僕はフェルマーの最終定理の証明を理解していない。
僕だけではない。数学者ですら、多くがこの証明を理解せずに定理を認めている。
一部の人間が、私はこの証明が理解できるしこの証明は正しいのだからフェルマーの最終定理は正しい、と言い、それを聞いた僕はそのまま受け取ることになるのである。
フェルマーの最終定理は色々なものを生み出している。これが証明されたお陰で谷村・志村予想というものが証明された。
谷村・志村予想は数学界における2種類の分野に架け橋を作り、数学の新たな可能性を見出したし、現に今も見出されていることだろう。
その見出している数学者でさえ、多くはきっとフェルマーの最終定理の証明を理解していない。
何が言いたいのかは多少理解してもらえたことであろうが、もう少し極端な例を出そう。
神様の存在を信じている人がいるだろうか?
世の中には神様の声を聞いたり、姿を見たり、会話したりする方法を記した文献が数多くあるだろう。
本当に、そういった文献に書かれている通りのことを実行すると神様の存在を認識することができるのだろうか。
ほとんどの人間が、NO、と答える。
なぜか?
それは科学的でなかったり、合理的でなかったり、論理的でなかったり、と言う。
しかしそのどの意見にも、結局は根拠などない。
あるとすればそれは、科学に対する妄信的な信仰であったり、合理性に対する根も葉もない絶対的信頼である。
元より僕たち(神に出会えないと言う人間)は文献に書かれている方法を知らないし、まず何より彼ら(文献当時の人間)とは文化や言葉といった色々な面で違うのだ。
それなのにあの文献は間違っているだのと言うのは根本的におかしい。
私はアレを知らないからアレは間違っている、と言っているようなものである。馬鹿げた話だ。
科学に対する妄信的な信仰と書いたが、元より科学を正確に理解していれば神の存在を理由なしに否定することもなかっただろう。
科学とは判らないものに対する解釈の一つのアプローチだ。そこには決して神学や宗教における神秘を批判するものは存在しない。
それが曲がりに曲がって、今となっては科学は科学以外を批判する方法とされているのだ。
略語や単純化にはこういった歪曲と言うか、こういった錯覚の効果が現れることがある。
人間は情報の膨大化と共に、判りやすさを求めてしまう。
判りやすさは理解や新たな知識への活力ともなるだろう。
だが同時に、判りやすさには常に錯覚の可能性が付き纏う。
僕たちは抽象的な理解を恐れてはならない。
世の中は見ているだけだと抽象的なものなど存在しないし、いつも結果だけが存在する。
だが結果はいつも理由などの抽象的な背景を持っているのだ。
結果だけを見て、それで物事を理解したと考えてはならない。
結果が全て、というのは利益主義者の言葉であり、結果には常に錯覚を孕んでいる可能性を忘れてはならない。
僕は宗教や神学や占いを信じているわけではない。
しかし同時に科学や論理学、医学を信じているわけでもない。
ただ間違っていると思えるものは、唯一その、間違いだ、と考えていることだと思う。



もし僕の文章が理解できないのならば、それはそれで良い。
一番問題なのは僕の最後の方のまとめ的な部分だけで理解をしようとすることだ。
それだけはやめて欲しい。
僕が書いていることはそういうことだ。
判りやすいところだけで理解をしてはいけない。
単純な言葉には色々な解釈があるし、決してそれだけでは僕の理解に達することは出来ないのだ。
だからこの『あとがき』的な部分を読んでも、理解できない、と理解して欲しい。
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by xtu_ltu9981 | 2010-05-28 06:58 | 徒然なる希望と絶望

いつでもだれかがー

カラオケに行ってジブリとディズニーの曲ばかり歌っていた。
最初はマンネリした曲からの解放だったのだが、その解放先にはとても大きな世界が広がっていることを知った。
歌い始めるとその作品を断片的に思い出して感動するんだ。
僕はジブリ作品に関して言えばとても高い評価を持っているし、ディズニーの一部の映画に関してもそうだ。
1年前ほどだったと思うが、Veohでジブリ映画を見直したことがある。
その時僕はとても感動して、当時書いてた詩や脚本と照らし合わせて、オレはなんてちっぽけなやつなんだ、と感じた。
それは本当に思ったことだし、今でもあんな素晴らしい作品を作れる人間になりたいと思っている。
カラオケで僅かに目頭が熱くなったのを感じながら、家に帰ったらジブリをまた見直そうと考えた。
1作目には平成狸合戦ぽんぽこを選んだ。
1年前に見直したときはこの作品を見ていなかったことを思い出したからだ。
その感想を書こうと思う。

山を削られ食料は減り、住処を追われた狸たちはあーだこーだと都市開発を阻止しようとするが結局は失敗し、人間社会に溶け込んで生きていく。
狸では人間に敵わない。描かれている狸のポテンシャルは人間を上回っているように見えた。しかし元より数が違う。だから阻止計画は失敗した。
社会的敗北を喫した狸の数は減ったが、それでも彼らは歌って踊り人生を謳歌する。
ラストシーンに、狸たちは変わりきった住処を昔の元の山へ変化(化学)させることにする。変化で現れた昔の山には狸たちが自由に駆け回り、親狸の周りをくるくる回る子狸たちが見える。それを見た今の狸たちは涙を流してその親子に駆け寄る。すると変化は解けて、そこにはこちらを見ている人間の親子が現れる。
住んでいる社会、環境が違えど、そこにある親子の関係に人間も狸もないのだ。
僕はこの映画を映画館で見たことがある。確かそれは15年ほど前の話だろう。
あの頃に比べれば僕は歳を取ったし、色んなシガラミが増えたから自由とはいえなくなったけど、それでも人生を謳歌しているつもりだ。
僕も変わったし、僕を取り囲む環境も変化した。
知り合いは増えたし、もう会わないだろうと思える知り合いもいる。数年前まで雑木林だった場所には家が建ち、そこに今は住んでいる。
別に僕は環境破壊云々を言いたいわけではない。
ただそういった社会レベルの変化と個人レベルの僕自身の変化はたまにそのレベル差に隠れて忘れてしまうことがあるけど、いつもお互いが干渉しあっている。
だから狸たちは環境がどれだけ変わろうと、どれだけ自分たちの生活方法が変わろうと、楽しく人生を謳歌して、謳歌するために生きているに違いない。
そう思わせてくれる作品だった。



『狐や狸が姿を消したって。アレやめてもらえません?そりゃ狐や狸には化けて姿を消せるのもいるけど、でもウサギやイタチはどうなんですか?自分で姿を消せます?』
最後に狸はこう言う。
姿を消した、のではない。死んでいってるのだ。
これは社会というものの強さを物語っている。
自意識を持っていない人間が多いのは社会の強さに屈服した人間が多いからだ。
決して、持っていないフリをしているわけではない。
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by xtu_ltu9981 | 2010-05-19 01:04

たららたたららた

1.スペイン
2.ブラジル
3.イタリア
今年の力関係はこれだ・・・!!!

自由の中を自在に活動する、なんて言葉を僕は最近よく使う。
Amazonでいつも通り、本を物色していると懐かしい著者が出てきた。
森博嗣は僕が中学生時代の2ヶ月間で30冊も消費した本の著者である。
読むのが遅い僕としては驚異的な消費スピードだ。それはどれだけ森博嗣の本に興味を惹かれたのかを表している。
最近では押井守監督の『スカイ・クロラ』の原作者としても少し名前が出たかもしれない。
その名前がポツンと出てきたのだ。
本の題名は『自由をつくる自在に生きる』。
僕が最近よく言う言葉にかなり似ていた。
言っておくが、僕はマネをしていないし、この本は09/11出版らしいから森博嗣側もマネしていない(僕が言い出したのは3ヶ月前くらいからである)。
最初はちょっと気色悪かった。僕は森博嗣から影響を確実に受けている。
彼の小説はとても魅力的だったと覚えているし、具体例を挙げなくてもその魅力は幼い僕の体に何かを刷り込んだだろう、と推測できる。
だから直接的なマネではないが、僕が彼の思考パターンを少しパクった、から同じ言葉をチョイスしたのかもしれない。
あまり信じたくない話ではあるが、その可能性は少し考慮されるべき対象だ。不毛な話なのは間違いないが。
しかし、自由について考えればこの言葉をチョイスすることは何も不思議ではないからどこもおかしくない、とも思った。
ついでに買って読んでみた。
少し反論はあるものの、これは言葉の捉え方次第という枠組みに余裕で収まる範囲だから差を一々書くまでもない。
要するに同じだった。
もし僕が言う「自由の中を自在に活動する」という言葉があたかも、当たり前、のように見えるならきっとそれは自由をバカにしている。
自由という規制や限界の中をどれだけ自分の意思を持って行う自在性を得れるか、これは生きるにあたってとても大事なことなのだ。
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by xtu_ltu9981 | 2010-05-12 12:10