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ちゃららーちゃららたららー

「最近のサッカー選手で注目してるのはいるかな?」
「たくさんいるけど、若い世代に注目してるかな。その中で一人を挙げるなら、一緒にプレイしたこともあるリベリだね。彼はまるで子供のようにプレイするんだ。理屈でプレイするんじゃなくて感性でプレイをしてるんだよ。良い選手というのは感性でプレイするものさ。これからリベリの名前は何度も聞くことになるだろうね」
「逆に」中田はジダンの話に頷きながら言った。「そういった選手、そういった感性を得るにはやっぱり生まれ持った才能なのかな?それとも日々の練習かな?」
「両方だね。才能はなくてはいけない。才能があるならその才能を使うために練習しなければならない。私は才能にも恵まれたけど、現役時代はたくさん練習したよ」
この議題をもっと深く話し合って欲しいと僕は思った。
確かに理屈でプレイする選手は良い選手とはいえないだろう。遭遇する場面で毎回理屈というフィルターに通していたらトレースが遅くなるからだ。
感性は法則だ。こういう状況ならこう動く、というのを元から得ているのだ。だから理屈と違って摩擦による劣化がない。
しかし、その感性でのプレイも理屈でプレイするより劣ってしまう可能性がある。
だから理想的な感性を手に入れなければならない。その感性はどうやって得るのか。
それは練習であり、その練習で何を得るのかが才能なのだ。
まず才能という土台があり、その上に練習がある。そしてやっと感性という法則を得る。
理屈とは才能、練習、感性を繋げる一種の言葉のマジックでしかない。

「最近のサッカーは僕たちが現役の頃と比べて変化してるよね。スピードが速くなったし、組織力を重視したり・・・そこをどう思う?」中田はジダンに目を向けた。
「確かに、今のサッカーはテクニックよりスピードやフィジカルを重視してる。ピッチから消えた役割もいくつかある。例えば10番と言うポジションも今は消えかかってる。私にとって10番は試合を作るポジションだけど、最近の10番もテクニックよりフィジカルを重視してる傾向がある。私が今現役だったらとても苦労するだろうね」ジダンは悪戯に笑い、中田は微笑みながら首を振る。
「スピードと体力が重視されがちになって外から見たサッカーの面白味ってのが減ったと僕は思うんだけど、どうかな?」
「面白味が減ったとは思わない。だけどこれからも10番やテクニカルなプレイヤーは守っていくべきだと思うね。なぜなら私が見たいのは美しいサッカーなんだ。攻撃だけじゃなくて守備でもね。それは皆同じ考えだと思う」
サッカーファンがサッカーを見ていて良かったと思えるのはどういったときだろうか。
歓喜なる勝利だろうか。
物理法則など存在しないようにボールを扱う華麗なテクニックだろうか。
一瞬にしてその場からいなくなる圧倒的なスピードだろうか。
何事にも動じずプレイする強靭なフィジカルだろうか。
隙間などどこにも見えない完璧に統率された組織力だろうか。
ここに挙げたものに共感を得る人は多いだろう。
応援するチームが勝てば嬉しいし、圧倒的な個人技を見たら興奮するし、統率された組織力を見れば唖然とする。
今、サッカーは変わろうとしているのだと思う。
個人技は今も昔も関係なく高められただろうが、組織力はコミュニケーションや味方の状況、相手の状況、戦術の動向など膨大な情報量がないと強固にはできない。
それが最近のネットワーク技術によって克服され、組織力を高めることができる時代になった。
だから今は組織力を高めることが流行になっているのだろう。
組織には組織力を維持する体力が必要だし、組織力を高めるスピードも必要だ。
しかし、だからと言ってテクニックを最低限に留めておくことは良くないことだと思う。
いずれはどのチームも素晴らしい組織力を手に入れるだろう。そうなると必要になってくるのは最低限のテクニックを凌駕する素晴らしいテクニックとなるのだ。
『美しいサッカー』とはフェアであり、尚且つ華麗で圧倒的で強靭でカオスでフラクタルなものだと僕は考える。
どれか一つ欠けるだけでサッカーはつまらなくなる。だから欠けることがない。
僕はジダンのプレイを見て何度も鳥肌が立ったことを覚えている。
そのプレイがサッカーで不必要なものなら、それは僕が知っているサッカーとは違うものだ。



中田、ジダン対談
http://www.youtube.com/watch?v=ebSnH8vFBrY
http://www.youtube.com/watch?v=qimC9XLEwf4
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by xtu_ltu9981 | 2009-11-25 11:48 | 徒然なる希望と絶望

たーらたらたーらたー

僕が犬を見て、僕はその犬を猫だと思うだろうか。
思うこともあるだろう。
それが間違いだと誰が断定できるだろうか。
僕がアレを猫だと思い、その他大勢の人間はアレを犬だと思った。
ならばアレは犬なのだろうか。
どうも神は死んだようだ。

Darker than black-黒の契約者-を見た。
契約者の思考における性質がどういったものなのかをもっと説明しても良かったと思う。
契約者という超能力者のようなのが何人か出てくるのだが、彼らは合理性に富んだ冷酷な人の形をした生物だと作中で語られる。
だが、どれだけ冷酷で合理的に動こうとしたとしても、決断をするならばどこか方向性がなければおかしい。
その矛盾を表現し切れていない感がある。
自身の命を守る。というのが根本な方向性なのかもしれないが、作中に出てくる契約者は自身の命以外を守ったり、何かを望んだりしていたのだ。
一応、この作品を見ながら出てきたその矛盾を解決する案は何個かあることはある。
最も共感できた解決案だけを載せる。
「心を込めてピアノを弾くことと、心を込めたようにピアノを弾くことは違う。心と形は違うからね。けどまず形から入るのも悪くない。形ができれば後から心も着いて来ることもある」「意味もなく微笑んだら、つられて嬉しくなることもあるだろ?」
何個か思い浮かぶ解決案が多次元的に合わさったものが作中の結果とみなすべきなのかもしれない。
とは言っても、根底としては契約者も一般人と同じとして扱うべきだと僕は考える。
僕自身が人の思考に合理性、もしくは論理性が欠けることなどあるはずがない。と思っているため契約者の定義が僕の中ではどうやっても曖昧になるのは仕方ないのかもしれない。
心とはとてもシンプルだ。いつも現状と未来を天秤にかけ、未来が現状になることを考える。
考えた結果をどう捉えるか、それは各々の求めるものの差異によるものだ。
だから何かを決断するにあたっては必ず各々の方向性が示されていないといけない。
まぁこの作品の中で出てくる契約者の定義としての可能性は何個かある。
スタッフがその定義を曖昧なまま進めている可能性。
合理性で冷酷な~ってのは作中の一般人の観測であって、作中における超越的には何ら一般人と代わらない可能性。
ま、なかなか詳細なロジックを提示してくれなかった作品だ。
アニメーションクオリティーも良かったし、音楽も悪くなかった。
展開スピードの計算を少し間違えたかもしれないとも思うが、この作品が持つこのストーリーに対する解釈は曖昧ながらも雰囲気が楽しめた。
ついでに今期のアニメで2期をやっている。
それも楽しみである。

「アニメ作るのは時間かかるわー」僕の知り合いにアニメクリエイターっぽいのがいる。
「けどアニメって描いた後ダメだと思えば描き直せばいいし便利ですよね」
「え?」
「映画なんかだと、例えば建物が気に入らなかったらもっかい高いお金出して作り直すじゃないですか。それがアニメだと楽だなーと」
「それはアニメクリエイターに対する侮辱やぞ」
アニメクリエイターが絵1枚に対する思いと映画のクリエイターが建物一つに対する思いは性質も大きさも同じなのだろう。
そして、僕が言いたかったことは「思い」ではなく「お金」である。
こういった仕事を抱えたときにこの両者は基本的に激突する。
精密に精巧にしようとすればお金がかかり、お金を抑えれば精密さと精巧さは落ちていく。
思いとお金では、重視したくなるのは思いだろうなぁ。

さてー、次は何見るかな。
攻殻機動隊の監督が最近監督した東のエデンでも見るかな。
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ついでに言えば点の数はちょうど1000個である。
嘘やけど。多分。
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by xtu_ltu9981 | 2009-11-23 13:33 | 徒然なる希望と絶望

ちゃらちゃらたららーたらーらぁーら

地球には、未だ届いていない星の光がある。
来年、明日、もしくは1時間後にやっと見える星もあるのだ。
なぜその光は未だ地球に届いていないのだろうか。
なぜ今は今であり、今は未だ過去ではないのであろうか。
それは時間に始まりがあるからだ。
では時間の始まる前は一体どういう世界が存在したのだろうか。
この時間軸とは違う時間軸があったのかもしれない。いやそれ以前に時間などないのかもしれない。
縦、横、高さ、こんな軸もないかもしれない。
そんな世界を想像することができない。
この世は知らないことばかりでその内の一部を知ったと認識したに過ぎない。
空間や時間というのは私の認識を可能にする方法として在るのであってその方法を抜きに認識できるものなどない。
認識外の世界に触れようとするのは可笑しいことだろうか。

内田勘太郎のライブを見に行ってきた。
数回このブログでも書いたが、解散した憂歌団というバンドでメインギタリストを勤めていた人である。
しかし僕自身ライブに行こうと思うことなど少なく、勘太郎のライブは今回が初めてだった。
少し早めにライブハウスについた僕は一番前の席を確保しつつツレを待つことにした。
だがツレは現れなかった。
ツレとは彼女や一緒に聴きたい友人でもないし、元々このライブは自分だけでも行きたかったから来なくてもショックはない。ツレが来なくて問題だったことは一番前の席に僕が一人で座ることになったことだ。
一番前の席といえばそれなりに競争率が激しく、ついでに言えばテーブル付の席というものも数が限られていて、当然ながら最前列の席はテーブル付である。
そこに一人で座ることになった僕はちょっとした背徳を感じながらライブを見ることになった。
勘太郎はステージに上がると、軽く挨拶をして演奏を始めた。
そのとき僕は真剣に席を移動しようか悩んだ。
背徳感があったから、というのもあるが、それはこの悩みの1割にも満たないだろう。
9割以上は勘太郎の左手が見えないことに起因する。楽譜のせいで勘太郎の左手が見えないのだ。
音楽とは聴覚的に楽しむものだ。
だがライブは演奏者の表情や演奏技術を視覚的にも楽しむべきものでもあると僕は思う。
特にソロギターの演奏はその要素が高いだろう。
その楽しみが楽譜のせいでなくなったのである。僕はこの演奏が終わったら移動することにした。
演奏が終わり席を立とうとすると、勘太郎が楽譜置きに手をかけ高さを低くし僕に目を合わせて微笑んだのである。もしかしたらあの微笑こそニヒルな微笑みだったのかもしれない。
僕は嬉しさから舌を噛んで笑みをこぼした。
勘太郎の素晴らしい演奏を視覚的にも楽しむことができ、すぐに2時間ほどが過ぎてライブは終了した。
ライブが終了すると勘太郎はCDや記念タオルを売ってるカウンターに行き購入客と会話をしたりサインをし始めた。
小さなライブハウスで客の数も少ない。タオルなんかを買えばサインはもらえるし数分間勘太郎の話も聞けるだろう。楽譜を下げたのは僕のためですか?なんていうネタもある。
考えはすぐにまとまって、足早にライブハウスを出て、近くのバーに行くことにした。

Pomeraを買った。
キーボードには違和感を感じるが、すぐ慣れる範囲だろう。
値段ももう少し落とせるだろうが、対抗馬がいないし落ちないだろうなぁ。
ここらを除けば満足。
こういったものが欲しかった僕としてはとても便利だ。

アポロの歌という作品を読んだ。
手塚治虫が性について描いた作品である。
一文で内容を表すと、愛に無視され続けられた少年が愛を体験し愛を尊みはじめる姿を追った作品である。
愛に無視され続けるとは、愛を知っているが愛を感じたことがない、ということだ。
愛の本質を直接語る形ではなく、何個かの愛の行く末を語ることで愛を読者に見せるという形を取っている。
そういった作品は感傷深くはなりやすいが、登場人物がころころ代わるため感情移入ができない作品が多い。
だがこの作品に関しては、主人公を統一化できる工夫がされているために悪い点が出てこない。
人は元来、生きようとしてきた。だから生き残っているのだ。
生きようとしなかった生物はすでに全てと言っていいほど息絶えていることだろう。
そして生き残る手段として受精があり、セックスがあり、愛があるのだ。
手塚治虫は最後をこう締めくくっている。
「自然は・・・男と女をつくりわけ・・・男と女はみずからの子孫のためにむすばれ生みつづける・・・胎児-それは男と女の、オスとメスとの誠実な愛のしるしである。誠実な愛がなければ人類の歴史はつづかなかっただろう」
「男と女と、生まれるものは、世界のつづくかぎり、無限のドラマをくりかえすだろう。きょうも、また、あしたも・・・」

手塚治虫は本当に素晴らしい作品が多い。
これを読んだのはバイト先で手塚治虫の特集コミックが出てたからである。
バイト中に読んでいたんだが、この特集にはアポロの歌以外の作品も載っていて、どれも素晴らしい出来だった。
他に手塚治虫で読んだことがあるのはWW2時代を描いた『アドルフに告ぐ』という作品がある。
僕は手塚治虫と言えばアトムとかそういったヒーローものしかないものだと思っていたのだが
この考えをその作品によって吹き飛ばされたのを覚えている。
もし読む機会を作れるのなら、手塚作品を読んでみることをお薦めします。
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by xtu_ltu9981 | 2009-11-18 21:30