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たったたーらー

もし、周りが変化したと感じたならば
僕は僕でいるために、僕も変化しなくてはならない。
周りの変化と同じ変化をしなければ、僕は僕ではない。
逆に言えば、僕が変化しなければ、周りは変化しない。
周りの変化を感じたならば、僕が変化したことと同じだ。

僕がやってるネットゲーム、FEZで大会があった。
以前までの大会では、作戦を決める際にわざと一貫性を保たせなかった。
敵はいつも同じ構成、作戦、動きをするわけじゃない。
敵によっては全然違った動きをする。
そういったことに対応するために一貫性を持たないようにした。
が、どうもうまくいかない。
だから一貫性を持たせた。
その甲斐あってか、今回は順調に駒を進めることができた。
相手にこちらが合わすというより、相手がこちらに合わす戦い方にできたようだ。
準決勝で優勝候補筆頭のチームと戦うことになる。
これまでの練習試合はよろしくない結果だ。
ただその練習試合はそこそこ前の話であって、一貫性を持つ前の話である。
試合は長引いた。
追い越されては追いついて、追い越されては追いついて、最後に逆転という接戦で勝利を手にする。
チームメンバーは発狂した。
僕の心臓がいつもに増して大きい音を出していることに気づいた。
皆が発狂する声と自分の心臓の音を聞きながら違和感を感じた。
「この周りの歓喜に僕は混ざるべきなのだろうか。いや、混ざりたくない。僕は僕でいることが必要なんだ。まだ決勝が残っている。僕は僕でいなければいけない」
僕は高鳴る心臓を抑えようとした。
「はやたん静かやな!」チームメンバーの一人が皆と発狂する中、テンション高めに僕に声をかける。
「皆がうるさいんやろ。オレはいつものオレやないとダメやねん」
今考えれば、この発言からしていつもの自分ではない。
勝って当たり前やろ?とか、軽い冗談を言うのが普段の僕である。
皆が歓喜に溢れる中、決勝戦が始まりそうになる。
いつもに増して静かな自分に動揺を持った。静かな自分に動揺を持つ自分。その動揺を抑えようとし、また静かになり、そのことにまた動揺を持つ。
このサイクルは冷静さではない。どちらかと言えば混乱だ。
赤色は赤色に見え、青色は青色に見えた。ちゃんと人としての能力は失っていない。
それなのに、僕は、目の前にある手がまるで僕の手じゃないような。そんな感覚に陥っている。
試合が始まってもその感覚は拭えない。
序盤はイーブンだ。しかし中盤あたりになるにつれ押され始める。
僕はその時の思惟を覚えていない。「なんとかしなくちゃいけない」というのに必死だったのかもしれないし、その時思っていたことを忘れようとして忘れてしまったのかもしれない。
そんな時、試合に動きがあった。敵を一気に潰しかかるチャンスである。いや、実際には、そうだったらしい、が正しい。
僕はそのチャンスを潰してしまう。
チャンスを潰してしまった瞬間に、チャンスを潰してしまったことをすぐに理解した。
その時、僕はさっきまで感じていた身体の不一致や周りの歓喜との不一致を一瞬で消し去り、自分のミスを感じた。
結局その試合は負けて、準優勝のまま終わった。
僕がそのチャンスを潰さなかったところで勝ったか負けたかは判らない。
僕がいつもの僕でいることができたところで勝ったか負けたかも判らない。
僕が皆と一緒に発狂していたところで勝ったか負けたかも判らない。
たらればを言ったところで、勝ったか負けたかなんて判らない。
ただあの時、僕が僕じゃないような感覚を僕が持っていて、そのことに気を取られていたことは確かだ。
精神面の弱さは否定できない。
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by xtu_ltu9981 | 2009-03-29 01:13 | 徒然なる希望と絶望

ワン、トゥ、トゥトゥトゥリー

経済用語で比較優位という言葉がある。
・A国では労働者一人当たり米を5生産し、麦を10生産する。
・B国では労働者一人当たり米を20生産し、麦を60生産する。
B国の方が強国であるのはほぼ間違いないと思うが
競争力に関してはそうとは言えない。
・A国/米1:麦2
・B国/米1:麦3
A国では米1と麦2が等価であり、B国では米1と麦3が等価なのだ。
もし米をいっぱい作りたいなら
麦の生産を抑えて、米の生産に回さなければならない。
そうするとA国の方が米の生産量を効率よく増やすことが可能なのだ。
米の競争力に関して言えばA国の方が強い。
これが比較優位という言葉の意味である。
逆に麦に関して言えばB国の方が強く、この際A国は比較劣位と言う。
この考えはおもしろい。
総生産でA国B国を比較すれば片方が強く。
競争力でA国B国を比較すれば両方とも強くも弱くもあるという。
比較の結果が変わるというところに面白味があるわけではない。
僕が興味を持った理由が比較の方法である。
明らかに両方、何を基準として比較するかが違っている。
総生産で比較するか、競争力で比較するか。
確かに方法は違う・・・ように見える。
しかし何かを基準にし、比較していることには変わりない。
僕は比較優位という言葉の意味を知りながら同時に比較の在り方について疑問を持った。
比較:二つ以上のものを互いに比べ合わせること。
らしいが、果たして二つのものだけで比較が可能なのだろうか。
数学的に考えて二つの点だけを座標に置くことが可能だろうか。
いや不可能だ。
その二つの点ともう一つの点を置かなくてはならない。
もう一つの点とは原点なわけだが
原点があり、そこから単位を決める。単位は何でもいい。比較である限り、単位の数値に意味はない。
ただ差異が示されればいいのだ。
ここで僕はもう一つの疑問を持った。
この場合、観測者と対象*2の3点で比較が成立している。
ならば観測者という私ともう一つの対象では比較は成立しないのだろうか。
現実的に成立しているから、成立しないはずがない。
理解をした私、理解をしたと理解した私、対象の3点で納得する。
簡単に言えば、過去の私と今の私と対象の3点である。
で、まぁこれは比較の在り方である。
比較とは3点から2点を比較する方法であるのは良いんだが、ならば3点以上ある場合、それは比較から外れることはあるのだろうか。
あってもおかしくはない。
比較が成立する限りに置いて、絶対必然的に3点以上を得ている。
3点以上得た私は比較を行う権利を持ち、その権利を使用する場を与えられ、初めてその権利を実行することが可能なのである。
使用する場がなければその権利を使用どころか破棄すらできない。
これを考えたと同時に思ったことがある。
比較は絶対必然的に3点以上を要する。
この必然的普遍性に置いて、僕は僕という在り方についてやはり怖れを持った。
絶対的反応というか、絶対的反発というか、そんな逆らいようもない自分の行動に置いての恐怖である。
これを恐怖と感じる僕もいれば、これを快楽や虚無や悲愴などに結びつける人もいるだろう。
ただ、どんな答えに自分を導こうとも、その方法や在り方自体に違いを見出すことができない。
ここから導き出される答えは、僕は正常であるという点だ。
これは救いでもなんでもない。
言ってしまえば、嘆きだ。
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by xtu_ltu9981 | 2009-03-16 19:22 | 徒然なる希望と絶望