カテゴリ:徒然なる希望と絶望( 56 )

とぅ、とぅるとぅるー

相対性理論はその名から推察できるように、相対性が重要な理論である。
そのため、相対性理論を知った人間には「世の中は相対的で基準がない!」と言い張る者もいる。
それは大きな勘違いで、相対性理論の相対性が示す意味はそうではない。
確かに、相対性理論は基準そのものが他の基準と相対的に存在し、いつも同じ値を踏むとは限らない。
だが、常に変わらないものがある。
それは、どう相対的であるか、だ。
その、どう相対的であるか、を明確にすることにより、結果も明確にしようとする理論が相対性理論である。

僕には確固たる立場などない。
それは社会的な立場という意味ではなく、僕個人の考えとしての立場だ。
ある時は唯物論を支持するだろうけど、ある時は唯物論を非難する。
僕の立場はころころ変わる。
周りの環境によって、すぐ変化する。
それでも変わらないものがある。
それは僕が周囲に対しての、姿勢、である。
情報をどうやって解釈していくか、それだけが変わらない。

変わり続ける姿勢は、変わらない。
僕が1年前ほどに思いついたキャッチフレーズだ。
元々は車のCMを見ながら、僕だったらどんなキャッチフレーズを用意するだろう、と思って考えた。
主語が違うから矛盾はしていない。
主語をつければこうなるだろう。
行動は変わり続けるが、私は変わらない。
ここで言う、私、とは、相対性、もしくは、情報の解釈方法、となる。

僕たちはいつも、結果に振り回される。
なぜなら、目に映るものは全て、結果でしかないからだ。
世の中に溢れてる情報は全て、結果だ。
しかし、目に見えなくとも、結果にはそれを支えるシステムがある。
そのシステムが、結果に振り回される僕たち、にも存在する。
振り回されてるのは結果だ。
本当に大事なものは、変わらない。

独自のシステムを持っている人の話である。
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by xtu_ltu9981 | 2010-08-31 07:56 | 徒然なる希望と絶望

だらだだらだーだらだー

キリスト教の国は、明確な正義、というものがあると思います。

はい、そうですね。

日本にはそういう明確な何か、というのはとても少ないんですね。
日本はなんというか、基準そのものが相対的なんですよね。
だから正義についても、何か明確なものがあるんじゃなくて、自分だけじゃなくて周囲の人が思う正義、というのも混ぜて考えようとするんです。
だから曖昧になるんですよね。

はい、判ります。

少し話が変わりますが、日本を、自由主義、と認識してる人が多いですが、僕はそう思わないんです。
僕は日本を社会主義だと思うんですよ。

日本と欧米が言う自由主義と社会主義、というのは違います。
欧米は日本のことを社会主義だと認識してる人も多いです。

なるほど。
恐らくキリスト教の方や、欧米の方には共感できない点だと思うんですけど、日本人は仕事に個性を感じるんですよね。

それは禁句です(笑)
アメリカやヨーロッパでは絶対ないです。

日本人は仕事を真剣にこなす事によって、自分の個性を作る、という感覚が多いように思います。
仕事、というのは多くの場合、組織としての行動です。
個人としての行動ではないんですよ。
この考えは、やはり社会主義なのかな、と思いますね。

日本は、良い学校にいけば良い仕事に就けて、そうすれば幸せになるって方程式があるように思います。
ソ連とまではいきませんが、ソ連に近く感じますね。

なるほど。

アメリカはそういった考えが小さくて、もっと自由です。
私の友達は小さい頃から、宇宙飛行士になりたがっていました。
けど彼の家は家計の事情で良い学校に行くことはできなかったんです。それでも努力を重ねて彼は宇宙飛行士になりました。
アメリカには能力さえあれば、やりたいことができる自由があります。
日本はアメリカに比べてそういう自由がとても小さく感じます。

日本は個性があまり尊重されませんよね。
知識があれば尊重されて、知恵があっても尊重されない傾向があると思いますね。

ハハ、それは少し言いすぎかもしれないですけど、日本の社会主義的な考えにも良いところがあります。
電車で忘れ物したら日本ではそれが返ってきます。
アメリカじゃありえません。
絶対戻ってきません。

ええ、ええ、確かに日本人は組織としての行動が得意のように見えるかもしれません。
だけどサッカーは弱いんですよ。
テクニックやフィジカルの問題もありそうですが、それ以上に戦い方がダメだと思います。
日本の選手は自分の好きなようにプレイしてるんですが、それじゃサッカーはダメなんですよね。
サッカーはチームとしての方針を皆で決めて、その方針に従属する、その方針に従い続けることが重要なんです。
それが日本のサッカーではできてないんですよね。

それはとても良い例えです。
ですが、それは日本の社会主義的な性質と違います。

はい、日本人は自分で何かを決定する力がとても足りない、と思います。
だから、組織的な行動、というのもやはり下手なのではないかな、と思いますね。
組織的な行動、言葉上は個人としての行動ではないように思ってしますが、やはりこれも個です。
社会主義的な行動、というのは行動内容が組織的、なだけであって、その行動決定は欧米も日本に違いがない、と思います。
その行動決定の方法が、日本は周りの眼を気にしたりして、曖昧になるんですよね。

貴方の考えはExtreme freeとソ連の中間のように思えます。

ああ、はい、そうかもしれません。
僕は自由を規則だと思っています。
そして、規則を決定するのは自分だと思います。
エクストリームフリー、究極の自由、は存在し得ないと思いますし、存在したとしても、人類にとって歓迎できるものではない、とも思います。
個人としては少し興味ありますけど(笑)




つづく・・・かもしれない。
きっと続けない。

バイト中に外人のお客さんがやってきて、そのお客さんとの会話の一部。
アメリカ人で牧師さんとして日本にやってきたそうである。
話が面白かったのか「今度名刺持ってきます。メールしましょう」といって帰っていった。
面白そうな出会いである。
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by xtu_ltu9981 | 2010-08-25 09:09 | 徒然なる希望と絶望

たらたらた、たらたらった

同じラインに立つことによって、個性の必要性が見えてくる。
個性を尊重しない人が多いのは、同じラインに立ててないからだと思う。
「人間誰しも個性がある。だから人それぞれ、それはそれでいいんじゃないかな」
この発言は、個性なんてどうでもいい、と言っているのと同じである。
今はある程度の努力さえすれば、知識レベルでは同じラインに立てる世の中だ。
調べようと思えばインターネットもあるし、情報は簡単に手に入る。
だからこそ、真剣さの有無によって個人差が開きやすいのだが、僕はこの状況が人間の進化の礎になるのではないか、と思っている。
誰もが情報を共有できる環境にあり、社会環境的にイーブンな環境に近づいている。
そこで他人との差異を見つけるのに必要なのが、次のビジョンだ。
そしてそれが、個性だ。
個性は他人より増さった知識量ではない。
同じ知識から得れる、新たに産み出した知識、それを個性と言う。
多少の努力があれば、既存の知識は手に入る。
その次を見出すこと、それが可能性だし、それを得なければ自分を失ってしまうとも思う。
なぜなら、個性を見出せない人間、それのどこに自分があると言えるのだろうか。
個性の獲得が、次世代の可能性だと感じる。

インテリジェンスとは、ただ知識があることを言うのではない。
インテリジェンスとは、他人との差異を見極めれることだ。
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by xtu_ltu9981 | 2010-08-22 08:58 | 徒然なる希望と絶望

だっただらったー

結果を重視して物事を進めていくと、とても狭い世界になる、と考えます。
無難な選択肢がある中で、よく判っていない選択肢を選ぶ、というところに、僕は可能性を感じます。
その行動に結果がついてこなくても、その行動は間違ってないんです。
結果の良し悪しより、無難な選択肢に依存しない、常識を考え直していく姿勢、それが重要だと考えます。
そこで初めて、アイデンティティが生まれるのだと、思います。
判ることだけをやっていると、個性はなくなって、成長もなくなるように感じます。
判らないことを判らないままにするのではなく、判らないことを追求していくことに、個性が現れるのだと思います。
それは、人間としての本質を現しているのではないか、とも思わせます。
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by xtu_ltu9981 | 2010-08-20 16:08 | 徒然なる希望と絶望

たたらだたたらたたらただらだら

羽生の将棋の一手には質量がある。

バッハの音楽の一音には質量がある。

ゴダールの映画のカットには質量がある。

意味という質量がそこにはある。

僕に質量はない。
だが、僕の行動には質量がある、か?




羽生の将棋は、凄まじい、という言葉が似合う。
もちろんその一言では説明できていないのだけれど、凄まじいのである。
彼の抽象理解は、凄まじい。
何気ない序盤の一手にも凄まじいほどの裏づけがある。
中盤あたりになると他の棋士の追随を許さない。
その奥深さは、読み、というだけに留まらない。
その奥深さを探ると、読み、だけでなく、羽生が今まで何万回と指してきた将棋を垣間見る。
意識的な読みだけではなく、そういった経験から得た無意識の美意識に触れているような感じがするのだ。
もしかしたら少年時代に野原を駆け回った無邪気さまで影響しているのではないか、と思いを馳せてしまう。
それほどまでに羽生の一手には質量がある。
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by xtu_ltu9981 | 2010-07-18 23:22 | 徒然なる希望と絶望

だ、だだだだだだだー、だだだだーだー

欲求に支配されるのは自由ではない。
利益に左右され、欲求に行動を決定されるのはどう見ても不自由だ。
では、理性によって行動を決定した場合は自由と言えるだろうか。
確かに、全ての行動を自分の意思の元で決定しているのなら自由と言えるかもしれない。
だが、所詮その程度だ。
人間とは、どこまでいっても理性に支配される。
人間とは、どこまでいっても自由に支配される。
人間とは、どこまでいっても自分に支配される。
自由とは、規則だ。
そして不自由だ。

何も知らない世界にいきたい。
何も知らないということは、何もない世界だ。
欲求もない。
愛着もない。
美徳もない。
経験もない。
何もないから、何も判断できない。
不自由もないし、自由もない。
そんな世界にいきたい。

私は私から解放されたい。
それは言葉からの解放だろうか?
それは感情からの解放だろうか?
それは常識からの解放だろうか?
それは論理からの解放だろうか?
もしくは、生からの解放だろうか?

何も意識したくないんだ。
それが意識だ。
何も望みたくないんだ。
それが望みだ。
嘘ばかりだ。
最後には無限と矛盾が横たわる。
何も知らない世界。
理解を伴わない世界。
欲求にも理性にも、何の判断にも囚われない。

不安という安心だ。
だからすぐに、新たな支配が訪れる。
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by xtu_ltu9981 | 2010-07-13 15:50 | 徒然なる希望と絶望

ちゃらー・・・ちゃらららぁ

バイト中に書いた僕の自由観構想メモ。



・行動原理
理性的行動、本能的行動

両者を区別して考える。
だが両者が対極に位置するという訳ではない。
結果だけを見れば同じ行動を取ることもある。
ただ、動機が違うのだ。

理性とは自分の考えである。
本能とはア・プリオリな誰にでも在るものだ。
私というより生物としての性である。
自由は理性によってのみ切り開く。

利益を求めるのは本能だ。
別に利益を求めるのが悪いと言っているのではない。
利益に捉われすぎて、自分の理性を失ってはないだろうか?
自由ではなくなってないだろうか?

自分の考えをどうやって持つか?
重要なのは自分で考えることだ。
自分で考えればよろしい。

結果に問題があったとしても、理由(行動、システム)に問題があるとは限らない。




このブログのテキトーさは素晴らしい。
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by xtu_ltu9981 | 2010-07-07 23:18 | 徒然なる希望と絶望

ちゃ、らーらった、ちゃーらちゃーらたー

自分の意思を持って決定する姿勢、これが自由だ。
だが、自分の意思とは何だろう。
周りの屑たちを見て常々思うのだが、彼らは何も考えてない。
もっと色々考え、納得ができるまで考え抜き、自分の意思を持って決定すべきだ。と思いながら、僕も彼ら屑たちと同じなのかもしれない、と思う。
どれだけ考えても、それは僕の視点にしか留まらない。
どれだけ考えても、所詮与えられた情報を吟味するだけ。
どれだけ考えても、真理には程遠い。
何も創り出さないし、情報に操作されているだけなんじゃないだろうか。
そして結局、美徳や偏見に頼って決定するしかなくなるような、そんな感覚に陥る。
それは自由には程遠い決定方法ではないだろうか。

僕に明確な立場などない。
いや、ない、とも言い切れない。
判らないのだが、判らない!と言い切ることも違うし、違う!と言うことも違うのだ。
僕が大事にしているのは姿勢だ。
例えば自由論を書いたミルは、苦痛からの解放、といった。
例えば理性批判のカントは、義務の動機が重要だ、と説いた。
例えば当時の哲学者から批判が相次いだファイヤアーベントは、私が批判するものは妄信的信仰のみである、と言った。
彼らが言いたいこと、僕が言いたいことは、結果が重要なのではない、ということだ。
その結果を導く過程、そこにあるはずの意思が重要なのだ、と言っている。
不自由とは物理法則であったり、生物的束縛であったり、感情的束縛であったりするけれど、それとは別のレベルで捉え、成すべき事を成すこと、これが重要なのだ。
不自由から脱出できれば自由になるのではない。
不自由からの脱出を試みることが自由なのだ。
だから集合論的に考えれば、自由は不自由の中にあることになる。
そしてこの言葉を鵜呑みにして自由を求めることも、自由には程遠い。

さらっと言ってしまったが、軽く読み返してみて僕の理解を映し出してる文を見つけた。
「不自由とは物理法則であったり、生物的束縛であったり、感情的束縛であったりするけれど」
例えばビルから落ちれば下に落ちて死んでしまう。
これは物理法則や生物的束縛によるものだ。自由ではない。
例えばマクドナルドでチキンフィレオとエビカツバーガーのどちらにしようかを選ぶとき(味以外の評価どれも同じだとする)
その決定は物理法則と生物的束縛による味覚と
その味覚の好みを決める感情的束縛に頼ることになる。
こういったことは自分の意思で決めているのではない、ということだ。
僕は過去に、お腹を満たそうとするのは自分の意思ではない、と恐らく書いたことがある。
お腹を満たそうとするのは、空腹、という自分以外からのプレッシャーによって決めているにすぎない。

カントが例えでこんなことを言っている。
他人のために尽すことが大好きで、他人に尽している人間がいる。
カントはこういう人間を善き人間だとは認めない。なぜなら、自分の利益、欲求のために利他的行動を取っているに過ぎないからだ。
もしこの人間が、ある事件をきっかけに他人に尽すことが大嫌いになったとしよう。
それ以降この人間は他人に尽そうとはしなかった。
そんなある日、この人間の目の前で子供が溺れかかっている。この人間以外にあの子供が溺れていることを知っている者はいない。
人間は「助けても僕が不幸になるだけだ」と考えた。
だが人間は子供を助けた。
その時の人間の思惟はこうだった。「しかし、助けるべきだ」
こういう人間をカントは善き人間だとする。
この例は極端であるが、僕も同じ意見である。僕は利益主義者(功利主義者)が嫌いだ。
僕は結果主義ではない。結果はどうでもいい。重要なのは動機だ。
結果を求めて行動するのではなく、成すべきことを成して結果を得ること、これがカントが言う善き人間であり僕が言う自由な人間だ。
だから、夢や目標や目的を持つことが重要なんだ、という言葉は誤謬を持つ。
僕がこういった言葉を使う時は、結果的に夢に向かってしまう、と言っているだけであって
一般ぴーぽーが言う、夢に向かうこと自体が素晴らしい、などではない。
夢に向かうことが素晴らしいという考えを実行すると、視野は狭くなり目的のためにしか動けない機械と変わらなくなる。
ファイヤアーベントではないが、僕は方法への挑戦を続けていこうと思う。
これはただ姿勢を示しているだけであって、何の結果も用意されていない。
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by xtu_ltu9981 | 2010-06-18 19:02 | 徒然なる希望と絶望

だだーだだーだだーだだーだだだ

不自由からの脱出を試みなければならない。
その姿勢が自由だからだ。
その姿勢を失えば、一生不自由だし、自由は判らない。

嫁姑喧嘩で婆さんがウチに泊まっている。
喧嘩の内容は単発というより、つもりに積もった鬱憤を姑が爆発させたようで修復は難しそうだ。
そしてなぜか、その喧嘩の仲介役に僕が抜擢される。
まぁしかし妥当な判断ではあるのかもしれない。
「君はまるで機械のようだ。切れ者だけど、人間味に欠ける」といった内容をよく言われる。
そんな人間は仲介役にはぴったりかもしれない。
まぁとりあえずそんなことはどうでもいい。
僕はこれまで老人と接する機会をほとんど持ったことがなかった。
だから老人というものを知らないし、婆さんという身内ですらあまり知っている仲ではない。
今回の件で始めて老人に接する機会を得たわけだが、とにかく彼女は人の話を聞かない。
それを何度も注意したのだが、もちろんそれも聞かない。
母親は老人に接する仕事をしているのだが「老人ってのはそういうもんなんよ」と言う。
僕が、そういう老人にはなりたくないな、と言うと母親は「老人になれば仕方ないんよ」と言う。
母親はそろそろ50歳だ。
老人数歩手前といったところだろう。
それなのにまるで、自分が老人になったことがあるかのように老人を語るのだ。
僕はそういう人間になりたくない。

プロフェッショナルというNHKの番組で、三浦和良の特集を見た。
僕はカズのプレイが嫌いだ。
ボールを持つことが好きでパスを出さないのに、足元がバタついてるし、シュートは浮くし、とにかく下手だったからだ。
だが人としては好きだった。
もちろん僕が持っているカズへの理解なんて大したことがない。
それでも未だ現役で、高校卒業と同時に単身ブラジルに渡り、30を過ぎるとヨーロッパでプレイし、何より人を惹きつけるスター性を持っている。
番組内で一番印象的だったのは、30歳くらいに感じた分岐点に関する話だった。
念願のワールドカップ出場を決めた98年。
カズがそのメンバーから漏れた時の話だ。
「これからどうしよう?そう思ったんです」
元々ピークを過ぎたら引退しようと思ってたんです。それでもいざその時になると、これでいいのかな?と思ったんですよ。今思うと、その時が僕のサッカーの本当の始まりだったんだと感じます。
カズは今43歳。
自分より若い選手に混じってとても厳しい練習に参加している。
歳を取れば体は衰えるし、怪我も多くなる。
だからこそかもしれない。声を張り上げ、体を張って走り回り、ランニングではいつも先頭を走り続け、監督にアピールし、レギュラーを獲得しようとする。
僕はカズを見て、なんて自由なやつなんだ、と思った。
その一番の要因は自分にストイックで、妥協せず、責任を持っている点だ。
30歳のときに自分で決定した人生を真剣に実行している。
自由だから人生を自分で決定できるのではない。
人生を自分で決定するから自由なんだ。
重要なのは自分の意志で決定することだ。

諦めなければ夢は叶う。
その真意は、諦めれば夢は叶わない、ということだ。
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by xtu_ltu9981 | 2010-06-12 12:07 | 徒然なる希望と絶望

だん、だーだん、だらぁ

「君の魅力は何かな?」
「僕の魅力を説明することはできません。僕の魅力は色々な要素が絡まって、その結果として現れる幻のようなものだからです。しかし、そういった複雑なシステムを持つというのは、魅力的な人間であるための条件でしょうね」
「それは魅力がないということかな?」
「魅力というのは元より他者の意見ですから、僕の魅力の有無もやはり他者の自由です」
「ふーむ」
「ついでに言えば、僕の発言を理解していれば、魅力というものを語ることがナンセンスということになります。もし魅力というものを見出したいならば、僕の言動を見てもらうしかないでしょう」

脳はとても複雑だ。
脳には視覚、聴覚、痛覚、記憶などなど様々な分野があり、それらが相互作用してこの現実を得ることを可能にさせる。
視覚という分野だけを見ても、色、角度、縦、横、運動方向・・・詳しくは知らないがそういった分野にまた分けることができる。
どれか一つ判ったところで、この現実は判らない。
どれか一つ欠けるだけで、この現実は発生しない。
全て判らなければ、この現実は発生しない。
哲学の論文もこれと似ている。
哲学書なんてのはつまらなくて欠伸を何度も出しながら読むのだが、最後の数行を読むと、いきなり視界が開けて欠伸など出るはずがないと思えてしまう。
それは最後の、まとめ的な部分を読んだから、ということではない。
全部読んで、全部理解しなければ、その人の哲学は理解できない、ということだ。
一箇所だけ、一文だけ読んで理解できるようなレベルの話ではないのだ。
全て理解して初めて一つの理解が完成する。

サッカーには戦術的ピリオダイゼーション理論というものがある。
これは練習方法に関する思惟だ。
素晴らしい結果を残しているモウリーニョという監督が練習の軸に置いている考えとして有名だ。
かく言う僕も、モウリーニョで始めてこの理論を知った。
戦術的ピリオダイゼーション理論曰く、サッカーというものは流動的でカオスでフラクタルなんだから実践練習が一番なんだよ!ということだ。
まぁこの理論を一般化(実践化)すると、実践練習に重きを置く、ということになる。
その根底となる考え方は、サッカーを分野分野に分けて考えるのではなく一つの生き物のように見ることに始まる。
何箇所かの分野に分けて練習しても価値は小さい。サッカーは11対11という環境そのものであり、別個に練習することはサッカーの練習にはならない。
もし右MFの選手はサイドを縦に走るのではなく中央に切り込むことを好むならば、右サイドは手薄になるだろう。しかし中央に切り込むことによって中央は手厚くなるしボランチの選手が攻撃参加しやすくなるだろう。すると敵も中央に選手に固めるかもしれない。その時左サイドにスペースができる可能性がある。そこを使えば攻撃が成功するかもしれない。
これは一例だが、サッカーというのは全ての選手が相互作用して織り成すものだ。
ハーフラインあたりでごちゃごちゃとパスを回している場合キーパーは関係ないんじゃないだろうか?いいや関係している。キーパーがいなければゴール向かってシュートを撃つだけなのだから。
もちろんこうは言っても、個々の力というのは必ずサッカーには影響するし、DFの位置が~MFの連携が~など分野ごとに考えるほうが効率的な場合もある。
だが戦術的ピリオダイゼーション理論では、そういったケースは特殊なケースである。
サッカーは足し算ではない。
だからどこか一箇所を変えるだけで強くなることはないのだ。
全てを総括して考えることで始めてサッカーを理解できる、そんな考えが根底にある戦術的ピリオダイゼーション理論を知った僕は当時とても衝撃を受けた覚えがある。

不完全性定理というのは結果だ。
システムはどこもおかしくない。
システムは正常で正確で確実だ。
だから現れる、不完全、という正常で正確で確実な結果なのだ。
矛盾などしていない。

「しかしそこまで言うなら今の僕が過去の僕を省みて、魅力を探ってみようと思います」
「聞きたかったのはそこだよ」
「頭脳明晰、運動神経良好、ストイックですが同時に、思惟は不完全で、足は遅くて体は固く、飽き易い傾向も持っています」
「結局どういうこと?」
「特徴がありすぎて、説明することは不可能なほど、複雑で魅力的だと言うことです」
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by xtu_ltu9981 | 2010-06-06 07:45 | 徒然なる希望と絶望