たらたたーら、たらたらららー

人は何かを悩み、考え、そして答えを出し、成長していく。
成長が社会的成長を意味するならば、これを認めよう。
悩むことに疲れ、諦め、見えない何かを見える何かに投影する。
人は自分を守るために、あらゆる事象から逃げ、あらゆる事象へと向かうことなく、自分を守り通す。
あらゆる事象から逃げるにつれ、高性能な逃避行動を身につけ、大人になっていく。
けど僕はそれを望まない。
その望みすらが逃避であることを承知した上で望まない。
何かを言葉にすること自体が逃避だと認める。
何かを理解したと理解すること自体が逃避だと認める。
逃避は何も悪くないことも認める。
逃避自体にエネルギーがいることも認める。
僕は逃避自体から逃避してみたいんだ。
未だ僕はその逃避場所を見つけることができない。
自分へ逃げるのも悪くない。社会に逃げるのも悪くない。
まぁ、論理的に考えるならば
逃れられない逃避から逃れる可能性がある逃避場所は、逃避自体にしかない。
これが僕の方針機軸になっているのかもしれない。

僕は3歳ごろの記憶を僅かに持っている。
しかし残念なことに、それ以前の記憶を全く持っていない。
きっと僕は3歳ごろから言葉を少しずつ理解してきたのだろう。
言葉を理解し始めると色々なものは意味を持った。
黒い目には感情を表立たせることも可能だと知った。
言葉を理解しなければ何も判らなかったのに
言葉を理解すると言葉を介し、今まで知らなかったことを知り始めた。
論点の理論的整理をしてみよう。
今まで知らなかったこと以外の場所に知り得ることを創造した。
そんなことがあるはずがない。
知らなかったことの中から、とある区間を知ったと理解したに過ぎない。
知らない中に知ってるものを生み出した。
知らないものは存在の証明すら不可能であろう。
存在もなにも、認知すら、想像すらできないのであるのだから。
ならば、その中に知ったと認識したものができてしまったのなら
その存在を証明できるだろうか。
もう少し具体的な理論的整理をしてみよう。
なぜ、とある区間に限って、知った、と理解したのだろうか。
他人の痛みは自分の痛みではない。これが当然であるはずがない。
これは情報の違いから生まれ、その情報の違いを違いと認識したがためにそう定義付けされたに過ぎない。
とある区間はその他の区間とは違った情報を持っていたのだろう。
さて、そこを情報の違いと定義付けるのは良い。
何を持って、そこに情報の差異を感じたのか。
次にもっとも大きな論点がある。
理論と実在性の因果性についてである。
物理学、化学、医学、文学、精神学、こういった哲学以外の学問はその因果性について実績を見ない。
これらの学問はこの因果性を哲学に依存するしかない。
リンゴが木から落ちるのは重力が原因だ。
リンゴが木から落ちる、このこと自体の実在性の証明は物理学ではされない。
哲学とはこの因果性について問うた学問でもある。
先の、何を持って情報の差異を得たのか、これすらが因果性でもある。
この因果性について人は答えることができるのだろうか?
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by xtu_ltu9981 | 2009-02-26 07:11 | 徒然なる希望と絶望


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